ドイツ語アルファベットで30のお題
〜マジンガー三悪編〜


"I"--der Idiot(馬鹿)





ミヒャエルの、馬鹿野郎。
マックス・シュナイダーは、心の底から湧き上がる苦々しい思いを、そんな言葉で吐き捨てることしか出来なかった。




彼の姉、ラウラ・シュナイダーは…気が強く、少しばかりおっちょこちょいでドジだが、明るくやさしい、そして信仰心の強い女だった。
神の愛を信じ、神の言葉を信じ…祈りを捧げることを忘れる日など、一年に一度たりとてなかった。
だから、マックスにはわからなかった―
何故、こんなに神を愛する姉が、こんなに残酷な運命を、こんなに残酷な仕打ちを受けているのか、ということが。




今、彼の姉は、力なく病院のベッドに臥している。
その身体には、白い包帯が巻かれ…彼女の傷口を、覆い隠している。




それは、どこぞの間抜けな運転手のせいだった。
とある雨の日、買い物に出かけたラウラ…買い物かごを手に元気よく家を出た姉は、瀕死のけが人となって帰ってきた。
雨に濡れた路面に、その車は急なカーブを曲がりきれなかったのだ。
勢いよく滑る車は、街路灯に追突し、回転し―挙句の果てに、何の罪もない女をはねとばして、やっとそこで止まった。
強烈なブレーキ音と激突音が通りに響き渡った。
その音を、今もマックスはまざまざと思い出すことが出来る―
当たり前だ。
突如上がったその音に驚いて、家から飛び出た時に見たモノ…それは、横転した車と、散乱するオレンジとパン。
そして、血まみれになって転がっていた、自分の姉の姿だったのだから―!
モノクロームの雨に染められた景色の中、そのオレンジと…姉の身体を彩る血の赤が、やけに鮮やかに際立っていた。
彼女はすぐさま病院に運ばれた。
が…医者は、彼女の状態を見るなり、すぐにさじを投げ出してしまった。
それほどまでに致命的なほど、彼女の受けた傷は重かった…
「時間の問題でしょう」
医者がマックスたちに言い渡した最終宣告は、それだけだった。
母は泣き崩れた。父は呆然としていた。
何も、出来ないままでいた。
何も。
だが、かろうじてマックスだけは…やらなければならないことがある、と、気づくことが出来た。
…このことを知らせなくてはいけない相手が、一人、いる。
そうして、それは…今、彼の姉が最も会うことを望んでいるに違いない男だった。
その男の「名前」は、ミヒャエル・ブロッケンと言った。
彼は、姉の恋人であり…やがては姉と添い遂げるだろう男だった。
職業軍人となった彼は、今は北部に派遣されている…
だが、そんな職務など、今の姉の状態と比べれば、紙子細工より軽い。
時間の問題。
医者は、そう言った。
ならば―急がねばならない。
早く、一刻も早く、ミヒャエルを呼び戻さねば。
姉が、手の届かない場所に行ってしまう前に。
姉が、神に召されてしまう前に―ミヒャエルに、会わせなければ。
マックスは、ミヒャエルに手紙を書いた。
速達でも足りないくらいだ、出来れば自分が鳥になって、直接彼に渡しにいきたい。
だが―




待っても、待っても、待っても。
ミヒャエルは、帰ってこなかった。
三日が過ぎ、五日が過ぎても―
…どう考えても、もう北部に手紙は着いているころだろう。
ならば、それからこちらに向かうとしても…もう、ついていなくてはおかしいではないか!
やきもきしながら、それでも彼は待つことしか出来ない。
ミヒャエルの馬鹿野郎、早く来い。
それだけをこころのなかで繰り返し繰り返ししながら―
待ち人は、来たらぬまま。
マックスの焦燥だけが、日に日に色濃くなっていく―




そうして、七日目の夜がやってきた。




「…」
「あ…」
眠りの中にあった彼女の精神が、再び現実に舞い戻った。
ゆっくりと、重いまぶたが開かれる…
そこから、憔悴した、だが美しい輝きを持つ蒼い瞳があらわれる。
付き添っていたマックスも、姉の視線に気づき…彼女のほうに、目を向けた。
「ね、姉ちゃん…調子、どう?」
何て、馬鹿げた問いだ。
自分でもそう思いながら、しかしそれ以外の言葉を見つけ得なかったマックスは、仕方なくその言葉を口にした。
ラウラは…弱々しく、微笑んだ。
「そ…そっか、うん…」
マックスも、だから笑う。随分無理をして、笑ってみせた。
と…彼女の唇が、かすかに開かれた。
「…ねえ、マックス…」
痛みをこらえて声を出しているのか、少しその表情が歪む。
「な、何だい、姉ちゃん?」
「…えるは?」
「…え、」
その言葉の前半は、あまりに小さな声だったので聞き取れなかったが…彼女が聞きたかったことは、何よりも明確だった。
ラウラは、もう一度…懸命に口を動かして、問うた。
今度は、はっきりと聞こえた。
「ミヒャエル、は…?」
「…!」
答えられなかった。
それが、何よりの答えだった。
ラウラの表情が、ふっ、と曇り…あきらめたような、哀しげな笑みがそれにとってかわる。
それを見た瞬間、マックスの中でかあっと怒りの炎が燃えた。
こんなにも状況が切迫しているのに、何故あの男は帰ってこない…?!
その理不尽に対する怒りは、思わず…口をとおって、言葉になって出てしまった。
「…畜生!何でだよっ、ミヒャエルッ!」
「…」
「み、ミヒャエルはっ、一体何考えてんだよ…?!姉ちゃんがこんななってるのに、何で、何で…!」
「…」
あの男を愛する姉の前では、言ってはいけない言葉だ。
それくらいのことは、マックスにもわかっていた。
わかっていたが…どうにもならなかったのだ、この憤りは。
ラウラは、何も言わないまま、そんなマックスを見つめていたが…
やがて、破顔一笑。
何故か、やわらかな微笑みが…彼女の顔に浮かんだ。
「…ふふ…そうかぁ」
「え…?!」
「あいつ…帰って、これないんだ…きっと、何か、…かえれない、事情が、あるんだ…」
「ね、姉ちゃん…」
ささやくような口調で、ラウラは、そう言ったのだ。
それは、いとしい男を責めもせず、何処までも思いやる…愛情深い、女の言葉だった。
今、彼が自分の元に帰ってこないのは、彼の意思ではないのだ、と。
何かそれを邪魔するようなトラブルがあって、それが彼を阻んでいるのだ…と。
「きっと、困ったことになってるんだ…」
「!…ね、姉ちゃん、何するつもりなんだよ!」
そう言うなり、ラウラが身体を無理やり起こそうとしだしたので、あわててそれをとどめるマックス。
全身ひどく傷ついているラウラには、そんな無茶はさせられない…
だが、ラウラは…真剣な目をして、荒い呼吸の合間から、必死に言葉を振り絞った。
「…おいのり、しなきゃ」
「え…?!」
「ミヒャエルが、困ってるんなら…神様が、あいつを助けてくださるように。…私、お祈りしなきゃ…」
いさめるマックスの腕を、振り払うように。
動かぬ身体を無理やり叱咤し、立ち上がろうとすらする…
いとしい男のために、祈りを捧げようと。
「ね、姉ちゃん、無理はよせよ!」
「マックス。…私の、クロスをとってよ」
「姉ちゃん、ッ」
「…くろす、を」
姉の蒼い瞳は、揺らがなかった。
だから…マックスは、最後には従わざるを得なかった。
彼は、不承不承…棚の上に置かれた、彼女の十字架(クロス)を手にとった。
鈍く光るその十字架は、彼女が子どものころから愛用していた物…
神に祈りを捧げるときに、必ず手にしている、信仰の証。
「…」
「ふふ…ありがと」
黙って、十字架を渡したマックスに…ラウラは、うれしそうに微笑んだ。
その微笑みさえ見るのがつらく、自然、彼は視線をそらす。
と…そっぽを向いた彼の耳に、静かな祈りの言葉が、かすかに聞こえてきた…
「…天にまします、我らが神よ…あの人を、おまもりください…」
「…」
「あの人が、ミヒャエルが、幸せでありますように…あいつが、無事でありますように…」
「…姉ちゃん」
途切れ途切れになりながらも、それでも歌うように流れる、祈りの言葉。
あまりに細く弱い声でつむがれるそれは、まるで彼女の残り少ないいのちの炎そのもののようだった。
しかし、それは何処までも神聖だった。
いとしい男の幸福を祈り、神の加護が彼の上にあらんと祈る。
彼女は、信じている。
己の信じる神が、彼女の恋人を守ってくれるはずだ、と。
そのために、祈る。
自分のいのちを、削ってまで…
マックスは、最早何も言えないまま…ラウラを止めることの出来ないままに、ただその場に立ち尽くしていた。
いつの間にか、彼自身も祈っていた。こころの中で、強く強く。
だが、彼が祈っているのは、ラウラと同じことではなく…ミヒャエルが、早く、一秒でも早く、帰りついてくれることだけ。




ああ。
ミヒャエルの馬鹿野郎。
早く、早く帰ってきてくれよ。
そうして、姉ちゃんを抱きしめてやってくれよ。
姉ちゃんを、最後に喜ばせてやってくれよ。
姉ちゃんは、こんなになっても…あんたを必死で想ってる。
姉ちゃんは、こんなになっても…あんたのために、必死で神様に祈ってる…!
だからお願いだよ、ミヒャエル。
早く帰ってきて、姉ちゃんを抱きしめてやってくれ。
そしたら、姉ちゃんは…きっと、笑って楽になれるんだから…!




だが、
マックスの祈りは、聞き届けられなかった。

その次の日の夜、ラウラの容態は急変した。




ショック症状を起こし、がくがくと震えるラウラ。
恐怖と苦痛にのたうつ彼女の身体を、母親は必死になでさする。
少しでも、少しでも彼女の苦しみを取り除いてやろうと…
だが、死神がもたらす末期の苦痛は、そんな母親の思いすら打ち砕くほどに苛烈だった。
ラウラの瞳は、力を奪われ、何も映さなくなる…
「…!」
「さむいよ、かあさん…とうさん、マックス、どこ…?!見えない、みえな、い…ッ」
「ラウラ!母さんはここにいるよ!」
「ラウラ!」
「姉ちゃん!」
三人はラウラの腕を取り、自分たちはここにいると叫び続ける。
しかし、死神に追い詰められている彼女の耳には届いていないのか…
ラウラの表情は迫り来る死の恐怖で強張り、その頬には涙が伝い続ける。
「さむい、つめたい…はああ、っ、ミヒャエル、…ッ!」
全身を襲う冷たい感覚に…それは、死の前兆なのか…身を震わせ、泣き叫ぶラウラ。
その痛みと寒気の中で、助けを求めるがごとく、彼女が必死に口にしたのは…最愛の男の「名前」だった…!
「ミヒャエル…さむい、寒いよぉッ、…いや、ここにいてよ、わたしをおいていかないでぇッ!」
「ら、ラウラ…!」
「ああッ、ミヒャエル、ミヒャエル…抱きしめてよ、さむい、冷たいんだ…!」
「…〜〜ッッ!」
「ねえ、どこ…ミヒャエルッ、みひゃえるぅっ!」
「あ、ああ…!」
のどがひきつれんばかりの声で、何度も何度も彼の名を呼ぶ。
何もない空に伸ばされた腕は、いとしい男の姿を求め彷徨う…
その姿は、あまりに痛々しく…それでいて、胸を引き裂くかのように哀しいものだった。
がくがくと震えながら、マックスはその有様を見ていた。
だが。
唐突に…その狂乱が、収まった。
「あ…」
彼女の全身から、力が抜けていく。
いや、引き抜かれていく…彼女の、魂ごと。
全ての苦痛が終わりを告げる、彼女のいのちが終わるが故に。
急に脱力したラウラは、ベッドにゆっくりと沈み込み…長い長い、ため息をついた。
生命の息吹を、全て吐ききるかのように…
その、最期の瞬間。
ラウラは、確かに…ふっ、と微笑んだ。
虚空を見つめたまま、大きく見開かれたまま…その、蒼色の瞳は、何かを捕らえて動かなくなった。
マックスにも、母にも、父にも見えなかった。
そこには、何も無かったからだ。
だが…それは、神が彼女に与えた、ほんのささやかな祝福だったのかもしれない。
彼女には、きっとそれが見えたに違いない。
だから…彼女は、いとおしげな、切なげな、哀しげな、うれしげな声で…こう、つぶやいたのだ。




「…みひゃ、え、る…?」




それが、ラウラ・シュナイダーの末期の言葉だった。




それから、しばらくして。
ラウラ・シュナイダーの葬儀はしめやかに行われ、彼女の亡骸も埋葬されるときがやってきた。
折りしも、その日は雨。
あの時と同じような、陰鬱で、薄暗い雨…
ラウラが眠る棺が、大地に穿たれた穴に納められ…花を手向けられる。
そうして、土がかぶせられる。
その光景を、ラウラの母親、父親、そしてマックスはうつろな瞳で見ていた…
泣きはらした後にあるのは、虚無と憔悴だけ。
いとしい娘を奪われた両親の表情は空っぽで、もはや何の感情のぶれも浮かびはしない。
そして…マックスは、じっと埋葬される姉を見ている。
あの男が見られない分を。
あの男の分まで。
そう。
この日になっても、あの男は帰ってこなかったのだ…
一体何事が起きたのか、何故あの男は帰ってこないのか、帰ってこれないのか。
…だが、もうそんなことはどうでもよかった。
全ては、
全ては、もう終わってしまったのだから。




…だけど。




マックス・シュナイダーは、空を見つめ…今は天に帰ってしまった、姉のことを思った。




姉ちゃん。
姉ちゃんは、最期の時…ミヒャエルの姿を見たのかい?
大好きなミヒャエルに会えたのかい?
姉ちゃんは、あいつのことを想い続けて、祈り続けて、そのまま死んでいった。
姉ちゃん。
姉ちゃんは、最期の時…ミヒャエルに、会えたのかい?




天空に問うたその答えは、かえってはこない。
だが、マックスは、信じたかった。
姉は、ラウラは、きっと照れくさそうに笑って…"Ja(うん)"と答えているのだ、と。




…だから、それだけに。
あの最期の瞬間、
ラウラの最期を看取らなかった、
死にゆく姉を抱きしめなかった、
ミヒャエルのことが憎かった。




ミヒャエルの、馬鹿野郎。
マックス・シュナイダーは、心の底から湧き上がる苦々しい思いを、そんな言葉で吐き捨てることしか出来なかった。





マジンガー三悪ショートストーリーズ・"Zwei silberne Ringe, ewige Liebesbande"より。
最愛の人は、そのことを知らぬまま。
その残酷な運命のいたずらを仕組んだのが、天にまします神だというのならば…