ドッキドキ!ドクター・ヘルの羅武理偉(ラブリィ)三国志珍道中☆ (24)


小説・特務「戦場の亡霊」(3)

大地が、激しく戦慄いた。
大地が、険しく唸り出す。
「…?!」
「な、何?!」
「ひ、ひいー!」
ヘルたちの喉から、思わず驚愕の悲鳴が吹き上がる!
盗賊三馬鹿兄弟は互いに身を寄せ合って情けない叫び声を上げる。
まるで怒りに身を打ち震わせるかのような、邪意のこもった地鳴りは続く、
数秒、十数秒、数十秒、
ただの地震ではありえないほどに長く長く―!

が。
始まったのと同じく、それは突然にぴたり、と止む。
そのかわりに、その場の空気を一挙に押し包んだもの、それは―

底冷えするような異常な冷気と、頭蓋を押しつぶしてくるかのような重圧!

<ワレらの戦場を荒らすのは誰ダァ!>

鳴り渡ったのは、滲み出る憎悪が音の形を成したもの。
心の臓を鷲づかみにするような、人のこころを凍らしめるもの。
「…ッ」
「そ、そんな…」
続いて鼓膜をせわしなく震わせるのは、阿鼻叫喚―
見れば、何処より湧き出たか、無数の雑兵たちが拠点を取り囲んでいた。
赤き鎧兜、翠の武装。
孫権軍、そして劉備軍のしるしたる色に塗られた彼らのまとうその防具は、そのどれもこれもが薄汚れ。
虚ろな表情は色がなく、それでもただ、武具を振り回している、
互いに剣を振るい闘いあっている!
「本当の、亡霊…?!」
明らかに、それは生きている者の姿ではなかった。
かすかに揺らぎ、うっすらと陽光に透けてすら見える―
「ほ…」
ごくり、と。
三馬鹿兄弟の長兄が、息を呑む。
そして、一歩遅れて、三人揃った無様な絶叫がつんざく…
『本物が出たー!!!』
驚愕にがたがた震える三馬鹿兄弟、だが動揺しているのは彼らだけではない。
銀髪の男もその副将もまた、想像の埒を遥かに超えた展開に混乱をきたしていた。
「こんなものが、本当に出てくるとは…!」
すっかりと拠点を取り囲み戦い続ける亡霊たちの群れに、唖然と立ち尽くしている…
と。
彼らの注意が、完全にそちらに向いた…その瞬間をあざとく狙って。
「い、今だ!」
「!」
「あっ?!」
ヤヌス侯爵の驚きの声に思わずヘルが振り返れば、そこには―
この機に乗じて逃げ走る、三馬鹿兄弟の背中!
「よ、よし…!このまま、逃げ切る、ぞッ!」
「りッ、了解だあッ!」
調子に乗った馬鹿どもの叫びが、風にまぎれて飛んでくるにいたり。
「あの馬鹿ども!勝手な真似を!」
苛立ちのあまり、ヘルの端整な表情が怒りに歪む。

<ワレらの聖地に泥ヲ塗ル者 許さんゾ……>

が。
さきほどの地鳴りのごとき声の主が、不快げにそう言った―
次の刹那!
「…」
「…」
ぎきいっ、と。
まるで油の切れかけたからくり人形のような、硬い動きで。
てんでんばらばらに、互いに斬りあっていた雑兵どもが、一斉に…兄弟のほうに、目を向けた。
「?!」
洞穴のような、意思の感じられない暗い目。
無数の黒い目に貫かれ、彼らは思わず動じ、立ち止まってしまう。
ざっ、ざっ、ざっ、
死びとたちの群れが、ふらちな生者を取り囲む―
「ひ、ひいッ?!」
「か、囲まれ…!」
「お、お助けーッ!」
またもや上がった絶叫は、先ほどのものよりさらに恐怖の色を増していた。

<許しヲ乞うならバ 777ノ魂ヲ解放してみせロ>

地鳴りが、また不愉快げに言うのを聞くまでもなく。
ヘルと、その従者は駆け出していた―
「…ちっ、世話をかけさせる!」
「もうッ、あのお馬鹿ちゃんたちったら…ッ!」
「行くぞ、ヤヌス!」
完全に包囲された、馬鹿者たちのいる方へと!
<ワが名は亡魄なリ! 生かして帰さヌ……>
地鳴りは唸る。苦々しげに。
地鳴りは、男の姿をしていた。
ヘルの視界に、小さくその正体が映る。
のろのろと三馬鹿兄弟を囲むその輪を縮めていく己の手下どもを見据える、ひときわ体躯の大きな、立派な具足を身につけた頑健そうな髭面の男―
おそらくは奴こそが、この亡霊たちを束ねる親玉。
だが、奴を倒す前に…
「た、助けてくれるのか?!」
この戦力にもならぬ馬鹿どもを、何とかこの場より遠ざけねばならない!
おびえるあまりに間抜けな泣き顔を晒している呪鬼が、銀髪の男を見るなり涙声を出す。
ぎきい、と、新たな敵の存在を認めた雑兵たちが、ドクター・ヘルに暗い目を向ける。
「…!」
ヘルが投げ打つのは、乾坤圏!
空を切り裂く音も激しく、その刃がひしめく亡霊たちを…斬り飛ばした!
「ありがとう、助けてくれるのか!」
「でもまだたくさんいるんだよー!」
「やかましい馬鹿者どもがッ!」
勝手な泣き言に怒声で返し、ヘルは幾度も幾度も夏圏を振るう。
「はっ、たあッ!」
桜扇使いのヤヌス侯爵も、おなじく愛用の桜扇にて舞い踊り、ゆらめく死霊たちを葬っていく。
二人の練達者の前に、雑兵たちは為す術もなく散っていき、そして―
「喰らうがいいッ!!」
銀髪の男の乾坤圏の前に、兄弟を囲んでいた兵士たちの姿は打ち砕かれて消え去った!
と、その途端。
「ありがてぇ!先に逃げさせてもらうぜ!」
ばばっ、と。
その後姿、まさに、風を喰らうがごとく。
危機から脱出するや否や、怒鬼・呪鬼・暗鬼の三馬鹿兄弟は礼もそこそこに走り去っていく…
「あッ…!」
「ヤヌス!もうあいつらは捨て置け!」
思わず追いかけようとしたヤヌスを、ヘルの鋭い叫びがとどめる。
「で、でもぉ!」
「それよりも…!」
緊迫感が、にわかに彼の声にこもった。
そう…奴らは、逃げた。
残ったのは、自分たちだ。
…見れば、再び何処より湧いて出たのか、恐ろしい数の雑兵たちが二人を塀を巡らしつつある…
その光のない目を、ヘルとヤヌスに向けている!
「く…!」
777の魂を解放しろ、と、首魁は言った。
つまりは、彼らを葬らねばならないのだ―
777もの兵たちを!
「迷える霊たちよ、鎮まれ…ッ!」
飛び上がる。投げ放つ。
乾坤圏はそれ自体まるで生き物のように躍り上がり、亡霊たちを蹴散らしていく。
斬られて倒れ伏す霊たちの魂は力尽き、すっ、と地面に溶けていく。
「…ッ!」
身を翻す。薙ぎ払う。
紫禁扇はそれ自体まるで生き物のように羽ばたいて、亡霊たちを追い散らしていく。
斬られて倒れ伏す霊たちの魂は力尽き、すっ、と地面に消えていく。
十、数十、百…
斬る。斬る。斬り倒す。
一心不乱にこちらに向かってくる、いのちなき者たちを―
だが。
その終わりの見えぬ修羅場にて、疲弊していく銀髪の男の脳裏を…やりきれぬ思いが浮遊していく。
「…」
嗚呼、彼らは。
朱の鎧をまとった彼らは、
翠の鎧をまとった彼らは、
かつて、己のいのちそれ自身を武器として戦った、勇敢な戦士たちではないか。
「…」
嗚呼、その果てに落命し、この戦場の土くれとなり。
だが、安息を得ることができずにさまよい―

彼らにも護りたいものがあったはずだ、
そのために戦いそして力尽きた気高き者たちを、今―
自分たちは、再び殺している!

「…?!」
だらり、と。
乾坤圏を握り締めたまま、銀髪の男が…棒立ちのまま、動かなくなった。
唇をかみ締めて悲痛な表情でうつむくその姿が、ヤヌス侯爵の瞳に映る。
「ご主人様、どうしたのッ?!」
「…」
ヤヌス侯爵の必死な声。
夏圏使いは無言。
立ち尽くしたまま、動かない。
「戦って!戦わないと、やられるのよ?!」
「…」
ヤヌス侯爵の悲痛な声。
夏圏使いは無言。
立ち尽くしたまま、動かない。
「…」
群れ成す雑兵の霊たちが、薄暗い壁のように彼に襲い掛かってくる。
手には鉄槍、手には鉄剣、手には―嗚呼、
最早互いに相争う必要もなく、安楽なる黄泉にて平穏の時を過ごすはずの者たちが、
戦場に今なお縛られ、倒すべき敵もわからずに、
手には武具を持ち具足を纏い、生ける者へと雪崩を打って―
「…くッ!」
殺意孕んだその無数の切っ先が、熱い血潮がまだ流れる肉体を傷つける寸前に。
銀髪の男は、自棄めいた乱暴さで夏圏を放り投げた。
びゅん、とうなる乾坤圏の鋭さ。
亡霊たちを叩き斬って叩き斬って叩き斬って
<ソノ程度ではワレらを鎮められヌ……>
叩き斬って叩き斬って叩き斬って叩き斬って
<ムゥ……まだまだダ……>
叩き斬って叩き斬って叩き斬って叩き斬って
<ウヌ……その勢いダ……>
叩き斬って叩き斬って叩き斬って叩き斬って
<フ……もう少しだゾ……>
消し飛ばす―
末期の絶叫も、断末魔の苦痛もなく、
ただ、ただ、彼らは消し飛んでいく、
<……>
まるで暴風に煽られたまばゆいろうそくの炎のように
わずかに残った名も無き勇者たち、彼らの残滓が消し飛んでいく―


<オマエになラ……>


「!…ご主人様!」
刹那、ヘルは駆けた。
銀髪の男が、舞う。
縦横無尽に空を駆ける乾坤圏が、亡霊たちを再び葬っていく。


<今のオマエになら ワレヲ斬れるやモ……>


ああ。
ああ、斬れるさ。
お前が望むもの、それは―


鮮血の修羅が、眼前に立つ者をすべて吹き飛ばす。
ヘルはもう、その脚を止めようとはしない。
駆けて、駆けて、駆け抜けて、
亡魄と名乗ったその将の前に躍り出て、
そして、そのまま、
両手に光る一対の夏圏を…ためらいもせずに、打ち放った。


将は、身じろぎすらせず。
避けようとすらせず、真正面から、
滑空する夏圏の刃をその胴に受けた。


血しぶきも飛ばず、紅波も流れず。
ただ、ヘルの乾坤圏が、その残像を貫いて…翻ってくる。
それを受け止めたヘルの手に、手ごたえはなく。
嗚呼、にもかかわらず、その亡霊は―
満足そうに、微笑っていた。
<この感覚…これが逝くということか……>
それは、呪縛から解放された、という安堵のようでもあり、
それは、暗く何もない死へ向かう、という諦念のようでもあった。
<感謝する…我の無念は晴れたようだ……>
亡魄は、最後に。
銀髪の男を見据え、礼の言葉を告げた。
「…」
ヘルと、ヤヌス侯爵の目の前で。
少しずつ、少しずつ、
彼の輪郭が、解けていく。
かすれていく。
消えていく。
それを、
「亡魄の念が消え去った」と、
本当に呼んでもいいのだろうか?
あまりにも哀しすぎる本懐をようやくに遂げた、彼の将の果てる様を―

あれほどに地を埋め尽くしていた雑兵たちの姿も、掻き消えていく。
あれほどに空を塗りつぶしていた雑兵たちの叫びも、溶け散っていく。

…そうして。
後に残ったのは、静まり返った古戦場。
最早血の匂いもなく、喧騒もなく―

「…」
そうして、ようやくヘルは気づく。
これは―夢だったのだ、と。

これは、夢だったのだ。
戦に身を投じ、戦に生き、戦に散った、あの将の夢だったのだ。
己の夢を賭け、国を賭け、生涯を賭けた、あの将の夢だったのだ。
胸に抱いた希望を夢を、完遂させることあたわずにその半ばにて力尽き。
その自らの弱さを、自らの小ささを、不甲斐なさを悔やんでも悔やみ切れなかったあの将の―
彼を終わらせた致命は、きっと彼には得心のいくものではなかったのだろう。
だから、彼は望んだのだ。
血煙上がる戦場にて、もう一度。
もう一度戦い、誇り高き将として、もう一度死にたい…と。

誇らかであった。
だが、同時に、どうしようもなく哀れでもある。
そしてそれは、今も激戦地にて夏圏を振るう自分とて、堕ちてゆくやも知れぬ一つの在り得る未来。
この戦の時代において戦い続けることを選んだ者が、堕ちてゆくやも知れぬ無数の在り得る未来。

「ヘル様…」
「…」

桜扇使いが、幾度呼びかけても。
銀髪の男は、動かなかった。
深緑の瞳が、より深く悲しみに満ち。
ただただ見据えている、沈黙に帰った戦場を。


やがて己も往くかもしれぬ道を、見つめていた。



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