A War Tales of the General named "El-raine"〜とある戦記〜(45)


小説・撃破蛟龍!(3)

魔は、消失した。
静やかな空気の中で聞こえるのは、さらさらと流れる水音のみ。
川は、すっかり平和を取り戻した―かのように、見える。
「終わった、のか…?」
おずおずと事の成り行きを見守っていた呂葉の口から、ため息が漏れた。
蛟龍が逃げ失せたからか、まるでその場の空気すら変わってしまったかのようにすがすがしい。
「…何だか、身体も楽になってる気がする」
満ち溢れていた邪気も、あっという間に薄れて消えていったのか…
そこにあるのは、平穏な風景のみ。
そう…都を狙う邪悪なる龍は、敗北したのだ。
人間たちの力によって、打ち払われたのだ!
「すごいな!あんたたちがいればこの街は安泰だな!」
「はぁ…どうしてそこで油断するのですか!」
はしゃいだ声をあげる兄に、困り顔で叱咤する弟の呂真。
「蛟龍は完全に消滅したわけではないようです。
街の人たちのためにも 己を律しなければなりません!」
「ちっ、やっぱり口うるせえな…でも、呂真の言うとおりだ」
あの魔性は、まだ死んだわけではない。
また力をたくわえ、戻ってくるつもりなのだろう…
その時のためにも、備えねばならない。
来るべき災厄に向けて…
「今度は俺たちも街を守っていくよ!」
「私たちは戻り、改めて邪払いの節句の儀式をしようと思います…本当にありがとうございました」
仲悪かった兄弟も、危機を乗り越えたことによりその確執を忘れ去ったのか。
二人仲良く、馬を走らせ都へと帰っていった…
…だが。
剣を握り締めたまま立ち尽くす衛将軍には、その言葉はもう届いていなかった。
『主!』
「…!」
銀狼・神龍剣の声に、はじかれたように少女は駆け出す。
そこには…瞳を閉じたまま仰向けに転がる、車弁慶の姿。
蛟龍の支配下にあった彼も、今は呪縛から放たれたはずであろうが…
もはや暴れることもなく、ぐったりと地面に伏している。
「弁慶先生…!」
すぐさまに駆け寄り、エルレーンは涙混じりに彼の名を呼ぶ。
身体を揺さぶる。激しく、何度も。
けれども、意識を失った身体はがくがくと揺れるだけで、少女の声に答えない。
「弁慶先生、弁慶先生!」
「エルレーン殿!」
「!…車!」
そこに、戻ってきた流竜馬たち。
と、彼らの表情が、驚きであふれる…
行方知れずになっていた仲間が、そこにいたのだから!
「蛟龍に操られてて…!
け、けど、もうあいつは倒したはずなのに、目を覚まさない…!」
「そ、そんな…?!」
「車殿!しっかりしてください!」
懸命に呼びかける少女の声音に、どんどん焦燥と絶望がないまぜになる。
それを目の当たりにした副将たちの表情にも…
呼吸はしていても、泥沼のように深い深い眠りに落ちたまま。
偃月刀使いは仲間たちに何度も何度も名を呼ばれても、覚醒するきざしすら見せない…!
―と。
その時だった。
涼やかな声が、少女を呼んだ。
「…将軍様」
「一氷さん…」
女衛将軍をここまで導いた、謎めいた女。
一氷は静かな笑みを浮かべ…エルレーンを見つめている。
「邪気が、消えました…
蛟龍も、あれほどまで、傷を受けては、しばらくは、出てこれないでしょう」
「け、けど、それなら弁慶先生は…」
「…その人、」
じっ、と、一氷は、目を開かぬ偃月刀使いに視線を注ぐ。
「どうやら…生まれつき、すごく、すごく、霊力の、強い人、みたいです。
だから、蛟龍の、邪気を、まともに、受けてしまった」
区切り区切り、彼女は言葉を告ぐ。
偃月刀使いは、生まれながらに強い呪力を持っていたようだ、と…
だが、それに本人が気づくことはなく、今までその力を御する術を学ぶこともなく。
それ故に容易く蛟龍の手に落ち、それ故に深く邪気の影響を受けすぎてしまっている、と。
「どうすればいいの?!どうしたら助けられるの?!」
「…」
エルレーンの言葉は、最早絶叫に近かった。
涙をこぼさんばかりに浮かべた透明な瞳に映る、混沌たる眠りに落ちた己の部下。
このまま、このまま、目覚めなければ…一体彼はどうなってしまうというのか?!
頭によぎる最悪の事態に、少女の顔が哀しみで歪む。
そんな情けない衛将軍殿を前に、一氷は一瞬言いよどみ。
それでも、こう告げた。
「聡い、あなたなら、気付いているかもしれませんが…
私は、人間では、ありません」
「?!」
「え…」
「…」
思いもかけぬ、一氷の言葉。
絶句する副将たち。
だが、エルレーンと狼は、無言でそれを受け止めた。
心中で何処となく、それは感じ取っていたから。
「私は、蓬(ヨモギ)で、作られた、人形…
呂真様の家で作られた、邪気を祓う呪具」
一氷は、己の正体をそう語った。
節句の儀式のために作られる、蓬人形。
それが、蛟龍を制するために動いてきた、彼女の真の姿。
「あの、闇が、侵入してきた、時…
私達も、それを、見て、いたのです。
けれども、敵は、到底、私達が、かなう相手では、なかった…」
「…」
「何か、できることは、ないかと、街の人々の、邪気を祓っていた、その時に…
あなたに、出会ったのです、将軍様」
だが、祓いの力の塊とはいえ、昂ぶった邪気にて増長したあの邪悪に抗するには足らなかった。
だからこそ求めたのだ、己のかわりに剣を振るってくれる者を…
「蛟龍が、消えた、今。
私の、役目も、終わりました」
「一氷さん…」
「将軍様。呂葉様を、呂真様を、都を、守ってくれて、ありがとう…
私には、何も、差し上げるものが、ありません。
だから、そのかわりに」
そのかわりに。
彼女が申し出たのは、邪気を消し去るという、彼女本来の役割。
「最後に、私の、残った、全ての力を、使って。
この人の、邪を、消し去ります」
「え…」
不可思議な仙女がさらり、と言ってのけた言葉に、少女は一瞬言葉を失う。
己を引き換えにして、偃月刀使いを救ってくれるというのか…?
彼女が言葉を返せずにいる間にも、一氷はすっと倒れ伏した男に歩み寄り。
困惑している副将たちを押しのけ、偃月刀使いの傍らに膝を突く。
「それでは、」
鈴が鳴るような声で、最後に。
「…ありがとう、勇敢な、将軍様」
にこり、と、最後に。
人でない女は、エルレーンに笑いかけ。
そして、偃月刀使いに向き直り、
両手を重ね、瞳を閉じ―
「…!」
刹那、白光が彼女を包み込む!
そのあまりの眩さに、誰もが目を固く閉じてしまう。
瞳に焼きつくような閃光が、まぶたを閉じていても感じられる―
…数秒の後。
何とか目を開くと、そこにはもはや一氷の姿はなく、
「あ…」
「き、消えた?」
爽やかな蓬の香、その鮮烈な薫り高さだけが残されていた―
風。
そよ風が、エルレーンたちの髪を撫ぜていく。
まるで、別れを告げるがごとく。
そして…
「ん…」
「!」
かすかなうめき声が、聞こえた…気がした。
「車殿!」
「大丈夫ですか?!」
慌てて走り寄る副将たち。
見下ろす偃月刀使いの表情に、かすかな波が生まれ、そして、
「…?」
ゆっくりと、その瞳が開いた―
黒い瞳には、もう邪気の雲は見えず。
拡がっていく視界には、蒼空。
その中に自分を心配げに見つめる流竜馬たちの姿を認め、不思議そうにまばたきした。
「お、俺は、何故ここに…」
ふらつく頭を振りながら、上半身を起こす車弁慶…
どうやら自分が今まで精神をのっとられていたなどとはまったく気づいていないようだ。
それでも、何とか無事そうな様子ではある…
彼のそんな姿に、一様に喜びと安心の表情を浮かべる仲間たち。
…と。
「…〜〜ッッ!」
たっ、と、軽く地を蹴り。
立ち尽くしていたエルレーンが、こちらに駆け出す。
「!エル…」
車弁慶も、それに気づいた。
ぱっと顔を向ける、己の主に―


その時、偃月刀使いの瞳に映ったのは。
こちらをきっと睨みつけ勢いよく右腕を振り上げた、女衛将軍殿が飛び込んでくる姿―


「…理不尽だ」
少しずつ、夕暮れが飲み込んでいく風景の中。
かと、かと、と、軍馬が歩む音に混じって、男のぶつくさ呟く声。
偃月刀使いは、思い切り張られた左頬を痛そうに押さえながら、不機嫌そのものだ。
それはそうだろう…わけのわからない化け物に遭遇したと思ったら、気づけば草原。
敵の傀儡として使われていた…と聞いても、自分にそんな記憶があるわけでもなし。
だから、腹立ちいっぱいとは言え、目が覚めるなりエルレーンに全力で殴り飛ばされたことが納得いかない。
「また言ってますね」
「俺は、何もしておらぬのに…何故このような仕打ちを」
「ふん…ぬけぬけと敵の手に落ち、エルレーン様に刃を向けるとは。
あなたが間抜けであったがためにこのような羽目になったのだろうが」
「ぐ…キャプテン・ルーガ、貴様…ッ」
何処までも冷たいキャプテン・ルーガの言葉は、おそらくは本心。
確かに己の失態とは言え…ここぞとばかりに責めまくってくる女双戟使いの舌鋒に、檄しやすい偃月刀使いの口調が強張る。
「まあまあ…もういいじゃないですか!」
それをなだめる、幻杖使いに蛮拳使い。
剣呑な火花を散らす二人に、少しばかり呆れたような視線を投げ、キャプテン・ラグナは言う。
「何にせよ、あなたも無事であったし、都を襲う邪まなる妖かしも退けた…
それでいいじゃないですか」
そう、ともかくも。
彼らは、危機を脱したのだ。
それで十分ではないか…と。
「ねえ、エルレーン殿…」
彼らの前を行く軍馬の上、女主君の背に、そう言いながら。
キャプテン・ラグナが軍馬を進め、彼女の馬に並べると…
「…!」
思わず、あ、と、声が出そうになり、蛮拳使いは慌てて口をつぐむ。
そして、そのまま…手綱を軽く引き、馬を少し後退させる。
…衛将軍殿が、泣いていたから。
音も立てずに流すのは、安堵の涙か。
いつもどおりの偃月刀使いの姿を見て緊張の糸が解けたのか…
その表情は、微笑みを浮かべている。
大切な者を取り戻した安らぎに満ちている…
「…」
ふっ、と、小さな笑みを漏らす蛮拳使い。
まったく、あの御仁は。
本当に恐ろしく不器用なくせに、随分恵まれていることだ…!
振り返り、背後を見やるキャプテン・ラグナ。
だんだんと濃い闇に染まっていく光景の中、彼の姿も在る。




これほどまでに想われている、幸福であるくせにそれに相も変わらず気づきもしない…鈍感で罪深い、偃月刀使い殿。





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