A War Tales of the General named "El-raine"〜とある戦記〜(42)


特務・「侵食する闇」

「…」
「あ…エルレーン殿」
開いた扉に目をやると、そこには疲れきった顔のエルレーンが立っていた。
「どうでしたか…?」
幻杖使いの流竜馬の問いに、女将軍は無言で首を振る。
「そうですか…」
「ちっ…あのおっさん、いったいどうしたってんだよ」
沈痛なため息を吐く幻杖使い、軽く毒づく直槍使いの少年。
…と、またも扉が、不愉快そうな音を立てながら開く。
「…帰りました」
「…」
蛮拳使いと双錘使いは、徒労感を全身に引きずりながら入ってきた。
「何か、情報は?」
「いえ…」
その返答も、はかばかしくなく。
「何の手がかりもなし…く、車殿はどこに行ってしまったんでしょうねえ?」
「一切誰にも言伝なしに、なんて、あの御仁らしくもない」
あれから、もう一週間はゆうに経った。
あまりにも突然すぎて、思い当たる節も何一つない。
偃月刀使いの車弁慶は、まるで掻き消える煙のごとくこの街から姿を消した…
皆で心当たりのあるところは片っ端から探した。それでも、欠片ほどの手がかりもつかめなかった。
「やはり…何かの事件に巻き込まれたのではないでしょうか」
沈痛な表情で吐き出した蛮拳使いの推測が、どうやら一番ありそうな線であろう。
急用、にしては、仲間のうちの誰もそのことを聞いておらず。
蒸発、にしては、そんな素振りなど寸前まで見受けられず。
それに彼の性格ならば、書置きぐらいは残していくだろう。
「ここ最近の街の様子から行くと…十分ありえます」
「…」
エルレーンは、彼の言葉に無言でうなずいた。
軍内でも、街の異変についてにわかに問題になり始めてきていた…
それは奇しくも、偃月刀使いが姿を消した頃と一致する。
「そう言えば、急に治安が乱れてきたのも気になりますね」
「それも、物狂いの起こすいざこざが」
「それについて、解説官殿に呼ばれてる…」
ふうーっ、と、肩にのしかかるだるさを吐き捨てるかのように、重々しくため息を一つついて。
「…ほんとは、弁慶先生を探したいけど…ごめん、みんな頼むね」
「はい、わかってます」
いなくなった自分の部下のことが心配ではあるが…のしかかる責務が、自分をいつも追ってくる。
女将軍は職務がため、再び回廊に向かう。
―本当に、こんなに心配かけるなんて。
あの口やかましい厳格な偃月刀使いは、一体どうしたというのだろう?
衛将軍殿はまたこころの中で嘆息して、通りを足早に歩んでいく。


「たびたび足を運んでいただきありがとうございます…」
解説官の言葉は、重い疲労に澱みきっていた。
その原因は、知れている。

実は近ごろ、街の人びとの様子がおかしいのです
暴力的になる者や無気力になる者…
病気にかかる者までいます
5月は毒月とも言いますから、始めは天気のせいかと思っていたのですが…
ここまで酷くなるとそれだけとも思えません!
原因を探ってもらえませんか?


本当に、突然街の様子がおかしくなった。
盗み、いさかい、けんか、果ては強盗が多発するようになったのだ。
それも、今まで何の問題も起こさなかったような者までが、まるで何かに取り付かれたかのように乱暴になっていく…
どんどんと悪化していく街の治安、そして数多くの小さな事件の後始末に、彼ら役人はてんてこ舞いとなっているのだ。
「市場に様子のおかしい人びとを診てまわる女性がいるようですから、まずは話を聞いてみてください」
疲れ果てた口調でそう吐き出した解説官殿に、それ以上詳しく話を聞きだすのも気が引けた。
仕方なく、エルレーンは市場に向かうことにした。


いつもはにぎやかな市場も、少しその活気が薄れている気すらする。
そう言えば昨日、ここでもまた強盗騒ぎがあった…
身の危険にさらされながらも、商魂たくましい商人たちはそれでも今日も店を開いている。
が―
そのいつもどおりの光景の中に、一点の違和感。
市場の中央、広場となっている場所に…人だかりができている。
人々が列を成し、誰かと会うのを待っているようだ。
奥に、一人の女。
やや小柄な、緑なす黒髪を結った女性が、老人を相手に向かい合い、何事かを語っている。
どうやら、彼女が噂の女性のようだ。
―と、鎧具足を纏った自分が軍人であることがわかったのか、人々がわずかにどよめき、道を開ける。
その気配に、女が顔を上げた―
「…あなた、」
「え…?」
黒い黒い瞳をした、その女。
彼女はエルレーンをひたと見るなり、言った…
意味のわからない、謎めいた一言。
「あなたの周りに、少しだけ。ケモノの、妖気が纏わりついています」
「ッ?!」
「とは言っても、闇色をしてはいません、ね…」
「え、あ、あの、」
意味のわからない、謎めいた一言…だ。
しかし、彼女は「ケモノの妖気」と口にした。
―おそらくは、己が副将がひとり、彼のものだろう。
だが、それを知る由もないのに看破したこの女は、一体何者だ…?!
「…あなたは、軍から派遣された将軍様。違いますか?」
「え?!…い、いえ、そのとおり…です」
混乱する女将軍に、だが女はまったく臆することなく問いかけてくる。
何処か遠い目をした、不可思議な雰囲気を放つ女―
「…私は、一氷、と、言います」
女は、エルレーンをひたと見つめ、名乗る。
だが、彼女が次に発した言葉は…突然にすぎて、むしろ冗談のように聞こえた。
「お気づきかも、しれませんが…
この街は今、邪気に覆われつつあります」
「邪気…?!」
「ええ」
邪気、と。
得体の知れない呪い師が好んで使いそうな言葉。
しかしながら、彼女はなおも続ける。
「本来ならば、端午の節句と、その準備のうちにおのずと、厄が払われるはずでした。
ですが…今年は呂家で、端午の、節句の道具が盗まれ、厄払いができていないのです」
呂家の兄弟間での盗難騒ぎ。
顛末についても、女将軍は部下たちから既に聞いていた。
兄の呂葉が結局その犯人として断定され、今は牢に入っているとも…
その呂家の事件が、今回の異変のみなもとである―と、女は言うのだ。
「そして…その邪気を放っている、凶悪な、何者かの悪意が」
何処か、奇妙な抑揚をつけて、
女は謡うように宣した。
「この街全体をねめつけている…」
「…」
「私には、『それ』と戦い退ける武はありません。
ただ、邪気にまみれた、人々を、こうやって癒すことしか…」
そう言ってためいきをつく女の横顔には、悲観の色。
彼女の顔を見やりながら、女衛将軍は内心疑惑がわきあがってくるのを否定できなかった。
この女は、今町が荒れていくのは「何者かの悪意」のせいだと言う。
そしてそのきっかけは、呂家による節句の儀式が盗難騒ぎのために妨害され、行なわれていないためだと…
予測の埒を遥かに超えてしまっている一氷の言葉は、信じるにはあまりにも胡散臭かった。
けれども、でまかせを言っているようにも聞こえない…
「…一氷さん。あなたは一体」
「将軍様。唐突な私の言葉を信じろ、というのは、難しいでしょう。
ですが、武を持つあなた様に、この闇を払って、ほしい…
そのために、知ってもらわねば、ならないことがあります」
「私に、何をしろ、と?」
「…」
一氷は、一旦口ごもり。
「ただ、しゃべっても、将軍様、信じないでしょう。だから、お見せします」
具体的な策を言うのではなく、かわりにこう告げた。
「…早朝、日の出前。その妖気の持ち主と、ともに。平地に来て、ください」
「――!」
一氷の言葉に、エルレーンの表情がかすかに歪む。
妖気の「持ち主」と、彼女は言ったのだ。
すなわち、やはり彼女はわかっている…!
「何故?」
「まずは、一体、あの日に何が、起きたのか…そして、
私が、見ていた、ものを、お見せします…」
それだけ言って、彼女はふいっ、と顔をそむけた。
そしてまた、病人たちの世話に戻っていく…
「…」
不審の目を向けるエルレーンの視線にも、一切答えぬままに。
(…仕方ない)
どうやら、彼女は何か重要なことを知っているようだ。
ならば、彼女の望むとおり…出向くしかなさそうだ、彼とともに。


「…何だ?その女」
「不思議な力で病人を治している、って聞いたけど…」
「何で、そんなことを?」
「…わからない」
自宅。
エルレーンの話す事の顛末に、彼らもまた不振そうな表情を浮かべていた。
そのうちのひとり…いや、一匹が歩み出た。
『ふむ…主よ』
「神龍剣」
『どうやら、我が往く必要がありそうだな』
「…多分」
あやかしの力を持つ魔狼・神龍剣。
一氷が感じた妖気とは、彼のものであるのだろう…
しかし。
『我の放つ気、それもまとわりつくかすかなものを感じ取るとは…
その女も、只人ではあるまい。仙女か、あるいは…』
「…」
『どちらにせよ』
巨躯の狼が、うなり声を上げる。
『その女が見せたいもの、とは…』
あの正体の知れぬ、異様さすら漂わせた不可思議な女。
彼女の真意は読めないにしろ…
「でも、行くしかない…ね」
女衛将軍は、己が副将たる銀狼を見つめ、静かにつぶやいた。


「あ、」
まだ太陽が昇る前。
指定された場所にやってきたエルレーンと神龍剣を、女が出迎えた。
「来ました、ね。ありがとう、ございます」
「ええ…」
と、彼女の目線が、強大な狼に向いた…
常人ならば驚き恐怖し、腰を抜かす者だって当然いるだろう、巨体を誇る魔狼。
それに向かって、女は…
「そう、あなた。あなたです。あなたの力が、必要、です」
『…ふん。我を見ても、竦みもせぬとはな』
「お願いします、力、貸してください」
まったくたじろぎすらせず、平然としゃべりかける。
その悪びれぬ態度に、気高き狼は半ば呆れたような口調で返した。
「私たちに、何をしろと…?」
「過去を、」
問うたエルレーンに、彼女は答える…

「過去を、見て、ください」
「…はあ?!」
「過去を、見て。知って、ください」
「え、あの、何言ってる…の?」

過去を見ろ、と。
その言葉の意味が、まったくわからなかった。
過ぎ去ってしまったものを見る、とは?一体どうやって?
混乱でいっぱいになってしまったエルレーンをよそに、一氷はふところから小さな球を取り出し、神龍剣の前に置く。
「狼、さん。これ、お願い、します」
『…宝珠、だと?』
「今からそれ、まじないの力で、暴れ、ます。大人しくさせて、ください」
『妖術使い…?いや、それにしては…』
「ね、ねえ、一氷さん!過去を見るって、一体…」
わたわたするエルレーンは、一氷の真意を問いただそうとするも。
「…太陽、昇る!」
一氷の目線が、鋭くなる。
遠き山々の際に、白い線が走る。
陽光が光線となって、何本も何本も闇を疾走する。
「行きます、よ!将軍様、しっかり、見て、ください!」
「え――」
夜と朝とが溶け合う瞬間。闇と光が混ざり合う瞬間。
その不安定な瞬間こそが、過去と現在をもが行き交いあう瞬間―
一氷が叫ぶのと同時に、神龍剣の前に置かれた宝珠がふうっ、と宙を舞った。
赤い光をまとって踊るそれを、魔犬は慌てて呪力をもって押さえ込む。
どうしたの、と、エルレーンが声を上げようとした、その刹那。
「!」
少女の網膜に映る世界が、一挙に拡散。
そのすべてが白く白く染まっていく、そして何も見えなくなる―!
(…?!)
ぐらり、と、頭痛のような感覚。
まわっている、まわっている、空間が、自分が、世界が―

(…え、)
真っ暗だった。
気を失ったのか、とも思ったが、どうやらそうではないらしい。
何故なら、嗚呼…自分が、自分の身体が、宙に浮いている。
意識ははっきりしている。夢でもなささそうだが、さりとてこれが現実でもあるまい。
過去を見てもらう、と、一氷は言っていた。
つまりはここが、過去…記憶を見ているということになるのか?
そのうちに、目が慣れてきた。
ただの暗闇だったところがぼんやりと輪郭をなし、家具や調度品であることがわかる。
ここは、誰かの部屋のようだ…
(あれは?!)
「う…」
寝台に転がり、苦しそうな寝息を立てている男がいた。
(…呂家の、呂葉?)
弟の家の儀式道具を盗んだ、とのかどで捕まった、あの男ではないか…
そう言えば、「風邪を引いて寝込んでいた」と証言していたようだが、あれは偽りではなかったのか…?
…と、その時だった。
暗い寝室の空気が、ゆらり、とゆらめいた。
風もないのに、揺らめいた。
(?!)
はじめは、目の錯覚かと思った。
だが、違う…明らかに違う。
けれども、何だあれは?
まるで生き物のように、真っ黒な塊が…人間ほどもある大きな真っ黒なものが、眠っている呂葉の上に浮かんでいる…
その正体を見極めようと、エルレーンが目を凝らした…その瞬間。
(!)
ぎょろり、と、
一対の目が、その闇に浮かんだ。
驚愕し硬直するエルレーンの眼前で、それはどんどんと形を変えていく…
口、耳、顔、胸、腕、手、腰、脚。
どんどんと生えていく。最後には、すっかりと完全なかたちとなっていた。
浮かんでいた真っ黒な塊は、人間の姿になっていた。
そう、真下で眠っている、呂葉とまったく同じ姿に―!
「…」
ゆらり、と。
呂葉に化けたそれは、床に降り立つ。
そして、深い眠りの中にいる呂葉をその部屋に残し…外へ、出た。
「…え?!いいんですか?!」
「ああ…今日は、家に戻れ。ちょっと、所用がある」
「しかし、それでは…」
「かまわん!…さあ、早くいったいった!」
ざわつく声が、聞こえてくる。
呂葉、いや呂葉に為ったあのどす黒いものの声と、使用人たちの声。
しばらくして、困惑気味の使用人たちが出てきた。
「…?何だろね、一体?」
「今日の呂葉さま、なんだかおかしい…」
「家に戻れだなんて…屋敷から人がいなくなってしまうわ」
「でもなあ…しゃあねえだろ。ご命令なんだから。…さ、出る準備しろよ」
どうやら彼らに、今夜は帰宅し家から離れるように命じたようだ。
その意味不明な命令にいぶかしみながらも、己の主君の姿をしたそれの正体を見透かすことができるはずもなく…ぶつくさ言いながら、彼らは屋敷を離れる準備に取り掛かるようだ。
(…あの黒いの、一体何を)
呂葉に化け、使用人たちを帰し…何をしようと言うのだ?
―と。
呂葉もどきが、動いた。
夕闇がどんどんと濃くなっていく中を、それは何処かへと向かって歩いていく…
夕方が夜になっていく。呂葉はそれでも歩き続ける。
着いた先は…小さな、農村。
その中の一軒を、呂葉は訪ねる。
彼の姿に気づき外に出てきたのは、背丈のひょろ長い男だ。
「あ…り、呂葉様」
「阿狗」
阿狗、と呼ばれた男は、身なりからして農民のようだ。
だが、しかし…その身体には覇気がなく、身に纏っているものも哀しいくらいに薄汚れており、彼が困窮しているであろうことが判じられる。
「あ、あの…ひ、非常に申し訳ないんだども、呂葉様。
おら、今ぁ金が用意できなくって…く、薬代、もうちょっと待ってもらうわけにはいかねえべか?」
呂葉に金を借りているらしい彼は、その取立てかとびくついているようだ。
しかし、呂葉もどきはそれには答えず、代わりににたり、と笑んで、言った…
「それなんだが、阿狗よ…」
「は、はあ」
「ちょっとしたことをしてくれたら、その薬代はチャラにしてやろうと思ってなあ?」
「?!」
「なあに、簡単なことだ…ちょっと、呂真の奴にいたずらを仕掛けてやろうと思ってね」
突然の申し出。好条件にも過ぎるほどの。
苦境のふちにいる阿狗があんぐりと口を開け呂葉を見返す。
相も変わらず、呂葉はにやにやと笑んでいる…
にいっ、と、横に薄く開いた口の中で、黒い舌が踊る。
「あいつの家では、今…端午の節句の準備で、菖蒲を用意してるんだ。
そいつをちょっと盗んできてもらいたい」
「な?!で、でも、そんなことしていいんだか?!」
「ああ、あいつを少しからかってみたいだけさ!」
弟をちょっとからかってみたい。
しかしながらそのためにと教唆されていることは、盗みだ…
一体何のためにそんなことをさせるのか、そんなことをしていいのか、と困惑する阿狗。
だが、呂葉は彼の耳元で、なおもささやくのだ。
「…」
「…なあ、阿狗よ。お前の息子は、まぁだ病から治りきらんのだろ?」
「…」
「今までの分だけじゃなく、今後困らんだけの金をやるよ…息子のために」
「…!」
そこまで言われるに至って。
純朴な、だがそれ故に御しやすい農夫の目の色が変わった―
(あの男を使って、呂真の家から菖蒲を盗ませたのか…)
闇が、どんどんと濃くなっていく。呂葉の影をも飲み込んでいく。
阿狗の家を後にした呂葉は、再び街に戻り―
そのころには既に、深夜になっていた。
呂葉は自分の家に戻る。人払いをし、誰もいなくなった家に。
と―
(!)
その館の玄関、木戸をせわしげに、遠慮がちに叩く音。
こんな時間に来客か…呂葉もどきが、それを出迎える。
「…入れ」
「!呂葉」
ぎい、と、開いた扉、闇の向こうから。
卑屈そうな笑みを貼り付けた小男が、ぬるりと入り込んできた。
服装を見ると、どうやら下位の文官であるようだが…
いぶかしむエルレーンの真下で、男たちは不可解な行動を取る。
呂葉は…いや、呂葉のようなモノは、家の奥より何かの包みを持ってきた。
薄布に包まれてはいるが、そこから透けて見える鮮やかな色彩…
そう、それは呂家の…盗まれたという、呂家の家宝・五色の糸ではないか!
「ふへへ…い、いいのかよ、本当に」
「ああ…これを、呂真の家の軒下にでも隠しちまうんだ。
あいつの家に出入りのあるお前なら、見られても何とでもなるだろう」
呂葉を模したそれは、くく、といびつに笑った。
「そうすりゃ、呂真の奴に一切合財疑いをなすりつけられるからな…」
「…い、いいか、約束のものはちゃんと」
「わかっている。…金は無事に事が為ったらだ、劉芳」
「絶対だぞ!」
こそこそと交わす二人の会話からは、その企みが漏れ出す。
今度はこの小男を使って、呂葉家の五色の糸を遠ざけるつもりなのだ―
そして、劉芳と呼ばれた男とともに、呂葉はこっそりと夜闇の中に消えていった…
呂家の家宝を抱えて、何処かへ。
その光景を見下すエルレーン。彼女の脳裏に、疑念が沸く。
(菖蒲を盗ませ、五色の糸を捨てさせ…)
これで、事件の概要はつかめた。
呂葉に化けた「何か」が、呂真家の菖蒲、そして呂葉家の五色の糸を別の人間を使って盗ませた。
(…節句の儀式をさせないために?)
確かにこの時期、街の人々を喜ばせ、尊敬を集め名を売る呂家の存在は、他の商家から見て鬱陶しいものと映るかもしれない。
彼らを煙たがっている連中も少なからずいるには違いない…
(呂家に不名誉をかぶせるためにだけ、ここまで…?!)
いや、違う。
何より、あの呂葉の「ようなモノ」…
あの闇が凝り固まってできた、人間の形をしたあれ。
あれは、明らかに常人のものではない。
もっと禍々しい、もっと恐ろしい、もっと邪悪な何かだ―!
その時。
ぞっ、と、背筋を寒気が走っていく。
工作を終えて一人帰ってきた、呂葉もどき。
その呂葉の姿を模した闇が、また動いた。
誰もいない、音もしない、痛いほどの静寂に満ちた、呂家の庭園。
何もない空間に向かって、かしずく。
何をしている、そう感じた瞬間に―

空間が、ひずんだ。
夜の空、その一部が歪み、ねじれ、蠢き、
何かがそこから顕現する。
星のない、暗い暗い夜空の下。
音もなく現れたのは―

一人の、長身の女。
褐色の肌には禍々しい刺青が踊り、身体に巻きつく具足はぎらぎらと光り。
うねる髪は何処か揺らいでいるかのごとく…
それは、女の姿をしてはいた。
しかしエルレーンにはわかった、それは…それは、人間ではない。
人間の女の姿を借りた、そしてあの闇を従える、不気味で恐ろしい何か別の―!

(!)
女が、こちらをにらみつけた―ような、気がした。
翠のような、金のような、威圧を込めた悪意を込めた瞳―!

その刹那。
硝子が砕け散るような音とともに、エルレーンの視界は四散した。


「――ッ!」
再び目を開くと、そこはふたたび草原。
もうすっかり太陽は眩しく輝き、夜闇は一切の姿を消してしまっていた…
宝珠はもう赤い光を失っており、神龍剣の足元で居心地悪げに転がって黙っている。
「…どう、でしたか。真実、見えました?」
「…」
一氷の問いに、エルレーンはうなずいて答える。
「呂葉さんじゃ…ない。わけのわからない真っ黒なものが、呂葉さんに化けて!」
「そう、です」
静かな口調で、彼女は肯定した。
「それが、闇の正体」
「…」
「私は、見ていた。あの女が…闇、です」
「あれを、私に…倒せって言うの?」
「はい」
軍人たる自分に、あの闇を斬れ…というのか。
だが―
「けれど、今のあれは…とても強い。邪気の勢いが、強すぎる」
「…」
その闇は、今節句の儀式による払いを受けず、ますますその力を増している、と。
どうやって戦えばいいというのか、そんなものを相手に?
「だから邪気を、払うために…呂葉様を、助けて」
黒い瞳の女は、そう懇願した。
「あれが呂家を狙ったのは、節句の邪払いをさせないため。
つまりは、今。あれは邪まな力で満ち満ちている」
「…」
「倒すためには、その邪をまず、払わねば…」
「…」
しばしの、沈黙。
透明な瞳の衛将軍殿は、唇を閉ざしたまま、女を見返していたが…
やがて。
「…わかった」
首肯し、彼女の願いを受諾した。
「あなたが何者かは、わからないけど。…けれど、嘘でもなさそう」
『…ああ。この者は、真実を語っている』
「あれの、正体…わかっています。あれは、恐ろしい。
将軍様、どうか、どうか、早くあれを…」
「…うん。呂葉さんたちのことは、私に任せて」
ともかく、街を襲うあの闇を破るために、やらねばならないことは理解した。
このまま奴の狙い通りにさせてなるものか―
女将軍の瞳に、ふつふつと怒りと闘志が湧き起こってくる。
『おい。あの化生…何処に潜んでいるかは、知っているのか』
「はい」
と。
銀狼が、ふと一氷にそんなことを問うた。
「ここから先にある、一筋の川。そこに、いるです」
そう言うと彼女は宝珠を取り上げ、両手のひらで包み込むように掲げ、
「ほら――」
「う…」
何らかの呪文を短く呟くと、エルレーンたちの視界が光に包まれる。
そこは川。人気のない、静かな川。
…川の真ん中に、目を閉じ立ち尽くしている人影。
あの、浅黒い肌をした女だ…闇の化身だ!
嗚呼、だが。
その敵の正体よりも、女衛将軍を驚かせたもの。
それは―

「ッ?!」
エルレーンの透明な瞳に、それは映り込んだ。

川の中で立ち尽くす、あの女…
その傍らに、エルレーンは見た。




大偃月刀を背にした、己の副将の姿を―





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