--------------------------------------------------
◆ 誘拐狂詩曲(Kidnap Rhapsody)〜luttuoso〜
--------------------------------------------------
「じゃあね、ブロッケンさん…」
「…」
廊下に出たエルレーンは、その扉に手をかけながら。
その部屋の主・ブロッケン伯爵をかえりみた。
伯爵は、無言のままでそれを見送る。
「…ほんとに、ありがとう」
「…」
少女は、弱々しげに笑む。
伯爵は、やはり無言のまま。
…ばたん。
扉が、音を立てて閉まる。
機械仕掛けの伯爵の目の前で。


その刹那。
無表情に近い伯爵の表情に、突然激情が噴き上がった。
「…ッ!」
舌打ち。
鋭い鷹のような瞳が、湧き上がってくる苛立ちになおさらに尖る。
その不快な感覚は、だがあの少女に向けてのものではない。
違う、そうではない。
胸の内を掻き乱す、思わず大きく息をつかねばならないくらいに、苦しみを生む感情の波。


…あの、おどおどした、それでいて残酷で苛烈な、小娘。


ブロッケン伯爵の脳裏に、先ほど扉の向こうに消えていった少女の姿が浮かぶ。
罪悪感にその端正な顔をひずませながら、必死に詫びていた少女。
陶然とさせる幻を想い出し、哀しみと怒り、そして何より自責の念にさいなまれ、涙を流していた少女。
その彼女に対し、自分が―
はからずも、慰めの言葉をかけ、その上…
自分の過去すら語るとは!
しかも、地獄城の誰にすら今まで口にしたことのないことを、あんな小娘に…!
その行動に、その行動をとった自分に、反吐が出そうなほどのフラストレイションを感じる。
残虐非道、悪辣非情、冷酷無比な鬼将校、
ドクター・ヘルに付き従う邪悪の化生たる、この自分が!
こともあろうに、あんな小娘を助けた―!
こともあろうに、あんな小娘に語った―!


―しかし、その一方で。
彼は、自分が何処か安堵の感覚を得ていることも、確かに感じていた。
一体何なのか、このアンビヴァレントな感覚は…?


何故か?
何故か?


己の深奥に問うまでもなく、彼は「答え」を既にわかっていた。
理解していた。


嗚呼、
あの小娘は、
まるで、


自分と同じ、だったからだ―!


嗚呼、すなわち、あの小娘は―
彼が、彼こそが欲することを、易々と。
易々とやってのけたのだ…
この、自分の、目の前で。


愛しい者の幻影に惑わされ、
愛しい者の幻影に魅入られ、
愛しい者に従って、
あの小娘は、自分自身を、断ち切ろうとした。
そうして、この世での生を終わらせて、
その愛しい者に会いに行こう、と。


胸ポケットに、自然に手が伸びた。
そこから取り出したのは、黒いカード入れ。
あの少女が垣間見た―
白い手袋をした鋼鉄の掌の上で、それは静かに開かれる―


開かれた、その中。
左には、あの女と写る、遥か昔の自分。
右には、あの男と写る、遥か昔の自分。
もう、遠い遠い、遥か昔の記憶の欠片。
まだ、自分が「人間」であったころの。
一度死に、ドクター・ヘルに改造され、
「バケモノ」となり蘇った、それよりも遥か昔の。


自分たちが浴びせられた、あの光線。
あの光線によって精神は幻惑の白い闇に落とされた。
だが、彼奴ら鬼どもが、自分たちの過去を知るはずもない…
そして、あの小娘は自身の母たる女を見、自分は―
あの女と、あの男を見た。


結局、その事実は伯爵にきっぱりと突きつける。
嗚呼、つまりは、あの幻を自分に見せ、苦しめたものは。
他ならぬ、この自分自身なのだ―!


あの女を恋い、忘れられぬ自分が。
あの男を追い、忘れられぬ自分が。
彼らの記憶全てが、そして彼らを求めるこの自分自身が!


伯爵は、そっと、カード入れを閉じる。
そして、また胸ポケットにしまいこむ―
そう、いつもそうしているように。
彼の、最早ヒトのものですらない、その心臓。
だが、その心臓に最も近づけていられるように、彼は常にそれを軍服の胸ポケットにしまいこむ。
既に無意識中の行動となったその習慣。
その習慣自体が…彼が、かつては「人間」であったことを如実に示す。
例え、脳以外の全身を金属で造りかえられた今であっても―


ふと、彼は。
何を思ったか、両手にはめていた手袋を、おもむろにはずしだす。
一対の絹の手袋を、半ば無造作にテーブルの上に放り投げた…
それから、ブロッケン伯爵は―
その右手を、自分の目の前に、ゆっくりとかざす。
鋼鉄の機構を包み隠す、偽物の皮膚。
だがその血の通わぬ皮膚をかぶせられた手の中に、唯一つ、
鈍く、しかし確かに輝きを放っているモノがある―


…銀の指輪。
伯爵の薬指にはめられた、銀の指輪。
彼の誓い。彼の想い。彼の「約束」。
それは、彼の過去そのものだった。


伯爵の頭蓋を、またあの甘美な幻影が去来した。
あの微笑みは、あの女のそれそのもの。
あの微笑みは、あの男のそれそのもの。
その微笑みを形作った源は、過去に執着する愚かしい、往生際の悪い自分の想い。


…嗚呼。
だが、あの小娘は、なんと素直に―
なんと素直に、それに従ったことだろう?!
抗うこともなく。足掻くこともなく。
わかっている。
わかっている。
自分は、羨んでいるのだ。
自分は、嫉妬しているのだ。
己の下らない理性などに邪魔されず、
愛しい者の待つ黄泉路を選ぼうとした、あの小娘が。


けれど。
だとしても。
それでも―
彼女が捨て、そして自分が棄てた、その決断。その選択肢。
それは、間違っているのだ。


あの小娘が、ミネルヴァダブルエックスの中で窮地にあった時、
上空から落下してくる巨大な鉄片から、あの小娘を遠ざけた時、
何故、この身を呈してまで、あの小娘を助けたのか?
―この、邪悪な、「バケモノ」そのものの自分が?


…それは、
あの小娘も、
同じことを叫んだからかもしれない―
彼女がその「母親」から受け取った、その言葉。
そう。
少女はあの時、こう叫んだのだ…


「…ルーガは私に、『生きていろ』って言ったんだああああッ!!」


嗚呼。
そうだ。
お前たちも、そう言っていた。


「簡単に、死ぬんじゃないよ…」
「お前も、…簡単には、死ぬなよ」



嗚呼。
そうだ。
俺は、お前と、そう「約束」した。
俺は、お前と、そう「約束」した。
だから、間違っている。
その言葉に、その「約束」に、逆らうわけにはいかない。
だから、間違っている。
例え、それがどれほどに甘く切なく素晴らしく、
そして自分の苦悩と苦痛しかない今の生を終わらせることが出来る選択肢だとしても。
まったく同じものを、あの小娘は抱えている、のだ。
だからこそ、自分は…彼女を、救ったのかも、しれない。


「…くくっ」
伯爵の薄く開かれた唇が、皮肉げに歪む。
再び、彼は手袋をはめる。
冷たい機械仕掛けの指を彩る銀の指輪が、またその白いシルクに覆い隠され、姿を失せる。
そうして、彼の過去そのものを隠し込んでしまう。
「…『人間』は死んだら終わり、か…」
あの時、真っ白な闇に囚われた少女に向かって、自分自身が叫んだ言葉。
現実に還れ、と。現世に帰れ、と。
だが―
彼らの幻影に身を任せた時の、あの安堵の感覚。
あの感覚に溺れた自分が、それを言うのか?
「言えたものか…ッ、この俺が!」
吐き捨てるように。
誰もいない自室で、ブロッケン伯爵はそうつぶやいた。


黒い瞳。
鋼鉄の伯爵の瞳に、また闇が落ちていく。
なおさらに。一層に。
その瞳に沈んでいく闇は、あの少女のものと何処か似ている―
彼と同じ幻に堕ちた、あの少女のものと。



back