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◆ 疑心と不安
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「おーいリョウ!悪ィけどさー、英語のリーダーのノート見せてくれよ!オイラ次あたるんだよなー」
ムサシが寮の3人部屋に入ってくるなり、明るい声をあげる。
…だが、机に向かって…何をするでもなく、ぼんやりとしているリョウは、その声が聞こえないかのようにぼーっとしている。
「…お、おーい、リョウってば!」
「…!…あ、ああ、悪い…何だムサシ?」
ようやくムサシの存在に気づいたリョウが彼のほうを向き笑いかける。
しかし、その笑みは何故かどこかぎこちない。
「リーダーのノート貸してくれんか?オイラ次当たりそうだからさ」
「あ、ああ…ホラ」
机の棚からノートを一冊とりだしムサシに手渡した。
「サンキュー、リョウ!恩に着るぜぇ!」
満面の笑顔で礼をいい、ムサシは勢いよく部屋を出ていった。
ばたんと音を立ててドアがしまり、また部屋にはリョウ一人が残される。
ムサシが去ったそのドアをぼんやり見つめるリョウの胸に、こんなことがふっと浮かんだ。
(ムサシ…お前やハヤトは…俺が、「女」だと知っても…そんなふうに、いつもどおりに、いままでどおりに…接してくれるだろうか…?)
表情が曇る。いやな予感、重い不安が彼の心を押し寄せる。
…昨日、雷雨の森で…あの女、エルレーンに自分の秘密を知られてしまった。
自分が「女」であることを…そのときからずっと、近い未来に何がおこるのかを思い描き、気がふさぎっぱなしだったのだ。
(あの女は、このことを…あいつらに、話すだろう。…そうしたら、あいつらは…?!)
ハヤトやムサシの顔が思い浮かぶ。大切な、「親友」の顔。
だが、彼らは秘密を知れば、自分に対する態度を変えてしまうのではないだろうか…
もはや「親友」ではなく…「女」という目で、自分を見るのではないだろうか…それが何よりも恐ろしかった。
彼らを…親友としての彼らを、失いたくはなかった!…だが、彼には迫り来るその瞬間を怯えながら待つことしかできない。
(…!!…畜生!どうして…どうして、俺は…本当の「男」に生まれてこなかったんだ…?!)
あの思いが、繰り返し繰り返しリョウの中で荒れ狂う。いつも何かの時が来るたびにリョウを責めさいなむ、あの思いが。

リョウの父親、流竜作は故郷九州で流一刀流の師範として剣道道場を営んでいた。…それゆえに、彼は後継ぎを、息子を欲した。
だが、彼と妻の葉子は晩婚どうしであった。そのうえ葉子は身体が決して強いほうではなく、なかなか子宝に恵まれるチャンスがなかった。
そして、とうとう彼はこう思ったのだ。
「もし子供が生まれてきたならば、『息子』として育てるのだ。…たとえ、女であったとしても」
やがて、夫婦の間に子供が誕生した。…竜作の願いむなしく、その子は女の子であった。
しかし、竜作はかまうことなく彼を自分の「息子」とした…
そして、「竜馬」という名前を与えた。
葉子は、止めることができなかった。
竜馬…リョウは竜作に厳しく育てられた。道場の跡取り息子として。男として、強い人間になるように。
車のおもちゃ、竹刀、黒いランドセル。…当然のように、リョウは自分を「男」だと信じて成長してきた。
だが、そんな彼もうすうす感じ出す。自分の身体が「男」のものではない、ということに。
もちろん今の自分の身体が「女」のものだということくらいは感づいていた。
両親は水泳の授業は「体質」ということにして全て見学にさせたし、団体で風呂に入らねばならない修学旅行などの宿泊行事も休ませた。
だから、友人も誰一人、彼が「女」であることをわかることはなかった。
リョウは自分の身体が男友達の…水泳の授業の前、クラスで着替える彼らの姿を垣間見た…ものとは違う事を既に知っていた。
しかしそれにもかかわらず、彼は信じて疑わなかった…いや、信じたかったのだ。
「いつになったら、俺の身体は『男』のモノにかわるのかな。中学校になる頃には、生えてくるだろうか」
まったくその思い込みは、素朴ですらあった。
だが、彼にもやがてそのときがやってきた。現実を思い知らされる時が。
それは、中学三年の冬だったろうか。…たった一人で、道場で打ち込みの練習をしていたときだった。
…竹刀を一心不乱に振っていたそのとき、鈍い痛みを下腹部に感じた。はじめはただの腹痛かと思ったが…そうではなかった。
うっとうしく続くその鈍痛に耐えかね、彼は練習を打ち切ることにした。…そして、胴着を脱いだ時、彼の目に飛び込んできたもの。
それは、自分がまぎれもなく「女」であることの、証拠だった。
リョウは、風呂場に走った。真っ赤に染まった下着とはかまの血を、必死で洗い流そうとする。
…洗い流さなければ、自分が…本当に「女」になってしまうような気がした。
だがその下着とはかまを洗ったところで、彼の身体に起きた変調…成長が止まるわけではない事は、彼自身痛いほどよくわかっていた。
彼は泣いた。とうとう、そのときが来てしまったのだと。
…今まで本などで読んでも、そのたびに必死で打ち消してきた。
俺は「男」なのだ、だから関係ない、と。
…だが、今日からは…「関係ない」などとは、言ってられなくなる。
俺は…「男」なのか、「女」なのか?!
わきおこる混乱と恐怖、今までの自分を全否定するその出来事に彼は慟哭した。
…凛々しく、強い少年に成長していた彼が、その日、ひさかたぶりに母親にすがりつき、泣きわめいた。
「お母さん!…俺は…俺は…『女』でしかないのか?俺は…お、『男』にはなれないのかッ?!
…どうすればいいんだ…教えてくれ!…教えてくれぇッ!!」
葉子は、慟哭する息子をやさしく抱きしめた。だが…何もかけるべき言葉を見つけ得なかった。
その夜、両親がずいぶん長いこと何かを話し合っていたことを、リョウは覚えている。
俺をどうするのかを話しているのだろう…彼が眠りに落ちてもなお、彼らは話を続けていた…
そしてその次の日…朝食の場で、父親が彼にこういった。何気ないふりを、装って。
「…リョウ。…休みだからといって、稽古をサボってはいかんぞ。…お前は、流一刀流道場の『跡取り息子』なのだからな」
…つまり、それが両親の「答え」だった。
…その言葉は、リョウを…安堵と、怒りと、戸惑いと、「見捨てられた」という思いと…様々な感情が混ざり合った複雑さの中に叩き込んだ。
…だが、彼はにこりと竜作に笑っていった。
「わかってます、お父さん。…もちろんですよ」
それを聞いた竜作の顔が、安堵からか少し緩むのが見えた。
…リョウにとっては、腹立たしくすらあったのに。
そのときだった。彼が、一生「男」として生きていく事を宿命づけられてしまったのは。
彼自身、最早自分が「女」に戻れるとは思ってもいない。
…生まれたとき届出された彼の戸籍には…「男」という刻印がされている。
つまり、「流竜馬」は、社会的にも「男」なのだ。
彼は自分自身に言い聞かせた。
「俺は『男』だ。『男』として生きていくんだ!!」
しかし、毎月そのときが来るたびに…彼の自信は、揺らぐ。
真っ赤な血が、その血を流す彼の子宮が、少しずつふくらみだした乳房が、明らかに女性らしいしなやかな曲線を描くように変わっていく身体が、
彼の自信を揺さぶる。そのたびに必死でそれを打ち消さざるを得なかった。
彼はいつもサポーターを身につけるようになった。
…そんなに大きくないとはいえ、彼の胸のふくらみは「女性」であることを外部に知らせてしまう。
そしていつも「男」としてふるまう。今までそう育ってきたのだ、当然の事だった。
…誰もが彼を「男」として見ている。凛々しく、正義感の強い、整った顔立ちの青年。
「…でも、もし…バレてしまったら…俺は…?」だが、いつも彼の心にはその不安があった。
それは恐怖だった。
彼が今まで築き上げてきたものが、全て…砕け散る。みんな、自分から離れていくだろう。
…そうすれば、自分はどうすればいい…?
どうしようもなく、怖かった。いつもそのことにびくびくしていた…

そして、今、それが現実になろうとしている。
リョウの心は晴れない。いつハヤトの口からそのことが漏れるか、ムサシの自分に対する行動がかわってしまうかと…
怯えながらこの数日を過ごしたのだ。
…だが、そんな彼の心持ちとは違い、彼らはまったくそんなそぶりを見せなかった。
自分に話し掛けてくる態度も、いつもどおり。「男」で「親友」の自分に対するものだった。
はじめは自分に気を使ってそうしてくれているのではないか、とも思った…だが、それにしてはまったく不自然なところがない。
…まったく信じられない事だが、彼らは自分が「女」であることを…知らない、あの女に教えられていないとしか、思えなかった。
…どうやら、自分の予想していた最悪の事態は回避できたようだ。ほっと胸をなでおろすリョウ。
(あいつ…エルレーン、どうして…?)
だが、安堵しながらも、リョウの胸に謎が残る。
どうしてあの女は、自分が「女」だということをハヤトやムサシに言わなかったのか…?
そのとき、ふっと…おそらくはじめてだろう、リョウの胸に奇妙な感情が生まれた。
あの女に会いたい。…会って、何故だか…聞いてみたい、という、感情が。
と同時に、彼の胸に氷解した一つの疑問。あまりにあっけなく理解できたので、かえって驚くほど…
(そうか…エルレーンに…俺は、怯えていたんだ…)
今までエルレーンにあうたびに湧き上がったあの嫌な感覚の、理由。
(あいつは…「女」そのものの…「俺」だから…俺が、必死で否定してる、「女」そのものだから…)
魅力的な肢体をおしげもなくさらし、男達を魅了する。可愛らしい口調、笑顔。誰もがとりこにならずにはいられない、美少女…
エルレーンは、「女」そのものだった。
あの女と向かい合うたび、まるで、自分自身がそんなふうに…なっているように思えた。
自分と同じ顔をした人間だから…そのたび、「お前も、女だろう?」とあざ笑う…
あのときが来るたび自分を揺さぶる、あの嫌な声を、嫌な感覚を思い起こされていたのだ。
…そこまで思いが至ったとき、ははっ、と短い笑いがリョウの口からこぼれ出る。
…わかってしまえば、ばからしい…な。あの女が悪いわけじゃあ、ないのにな…
机の端においてある鏡を手にとって、自分の顔をのぞいてみた。…エルレーンと、同じ顔。あの女と…
(…エルレーン)
そっと心の中でその名をつぶやく。
むしょうに、あの女に会いたかった。


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