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【五千円以内で幸せになる方法】


2、駅売り牛乳を飲む

 電車は一定の、どこか心地よいリズムを刻みながら、終点の駅へとすべりこんでいく。
もうすぐだ…私はかばんの中でそっとビニールに包まれたストローを握りしめた。
 思えば、3日前にふと思いついてから、この作戦は激動の日常の、その水面下において静かに進行してきた。
そして今朝、まさにクライマックスが訪れる。
 私は、七年ぶりにビン入りの牛乳を飲むのだ。
 それは長すぎる…永訣とも言える時をへて、再び来たる出会い。
人生においてあの無骨な、温かみのあるぽってりしたビンにずっと親しんでいられる人種と
そうでない人種がいることをあなたは知っておられただろうか?
そう、我が家では、『牛乳』というものは紙パックに封じられているものであったのだ。
紙パック派に属する我らに、ビン入り牛乳との別れは必然であった。
 それゆえ12の春、小学校を卒業し、昼食の配給が給食から弁当に代わるにつれ、
私とビン入り牛乳のきずなは、予定された運命どおりに断ち切られた。
 そうなると、すぐあらわれるのが人間の哀しいサガで失ったものをやたらと恋い焦がれるようになる。
 友人の家の冷蔵庫に鎮座まします変わらぬその姿態を、常軌を逸した目で見つめたりして友人に不審がられたりもした。
しかし紙パック派には、よそんちのビン入り牛乳を花嫁のごとくかっさらって逃げるということはできない。
家に帰れば、すらりと背の高い1リットル入り紙パックさんが、
私の口づけ(『あけ口』から直に口をつけて飲むバカ者)を待っているのだ。
一つ屋根の下にこの両者の共存はない。
 だから来たのだ、不義の密会へこの私は…

 朝のラッシュ、学生やサラリーマンが行きかう中を、小銭を握りしめて私は進む。
売店の明かりはほのかに私を誘う、コンビニにつってある紫のランプのように。
 『フルーツ牛乳一つ』嗚呼、私の声は震えてはいなかっただろうか。
この皮フ一枚をすかしてみれば、不実に脈打つ心臓とあたたかい血の巡りが見られてしまうはずだ。
 『ごめんよ牛乳パック、僕はこれからもキミに口づけを与えつづけるよ
(「ちゃんとコップ入れて飲みぃよ!」:母上談)。
だけどこの一瞬、僕の犯す不実を許してくれ』
 言い訳をこころにつぶやくが早いか、私はビン入り牛乳に襲い掛かった。
ビニールの細い帯を解き放ち、うっすら濃い桃色をしたビニールのヴェールをめくり、そして…
彼女(注:ビン入り牛乳のことです)の、私の不実を責め拒絶するように爪をはねのけるボール紙のフタに、数え切れないほどの手練手管…
 数秒もしないうちに、彼女の抵抗はポロリと折れ、なみなみとフルーツ牛乳をたたえる口が姿を見せた。
かすかに手が震えるのは、緊張のせいだろうか、それとも…
 私がおずおずと差し込んだストローに、先ほどまでの激しい抵抗が嘘であったかのように、フルーツ牛乳がとぷりと入り込んでいく。
――口の中で、彼女がはじけた。甘い。
私はフルーツ牛乳の甘さを、なぜ今まで忘れていたのだろう
――この悦楽はそれが正当な問いであることを証明してくれる。
 今、彼女の甘さに包まれ私は幸福である。
 後をひくその喜びに身を浸していた私の横に一人の男が足音高く現れた。
ビジネスマン風のその男も、どうやら同じフルーツ牛乳を買ったようだ。
私はなぜか、その男にじろりとにらまれたような気がした。
その違和感に思わず口に含んだストローをはなしてしまった。
そのとき、私は見てしまった。
 「ぶち、バリィッ!」可憐なリボンとヴェールをまるでおもちゃのように引きちぎり。
 「グッ、ぽんっ!」いじらしげな抵抗をするフタを圧倒的な暴力で振り払い。
 「ぐっぐっぐっ、ぐぐぐ…ぐぐっ(プハー)」何の思いすら寄せ付けず、その男は一気にそれを飲み干した。
 そして、そのあまりの残虐な光景に身震いする私に一瞥をくれ、奴はにやりと笑った(ように見えた)。
 『ビン入り牛乳にストローだって?アンタ、牛乳の飲み方しらねぇんじゃネェの?!』
 来たときと同じく足音高く去っていく男、そして売店の前には、一人、私一人。
 「ああ、あなたは汚されてしまったのね」
自分の中で屈辱の感情が湧き上がる音と、
白く膜が張りみにくく飲み尽くされてしまった被害者の、
そう、ビン入り牛乳の慟哭を私はそのとき確かに聞いた。