2029   Re^2:『なんのための日本語』
2004/12/13 14:39:12  ijustat   (参照数 77)
これは 2028 [Re:『なんのための日本語』] への返信です

ゆどうふさんこにちわ! ijustatです。

12月は秋学期と冬学期の間でなんとまるまる1ヶ月の休暇です。でも、その間講師料が入らないから、けっこうきついです。

お返事ありがとうございます。『なんのための日本語』は、日本語教師の心を動揺させる本として、存在感のある本ですね。

>ブロークンでもいい…そりゃまあ、それはそうなんですけど。
>しかし、だからと言って、間違いをそのまま保有したままで生きている人に対して、
>世間様は存外厳しいんじゃないでせうかね。
>特に、これは時折指摘される点ですが、
>外国語の初級者(明らかカタコト)に対しては、結構皆やさしいし間違いにも寛容なのですが、
>中級者以上になると、突然評価が厳しくなるので。
>そんな気がしませんか、世間様って…(笑)

本当にそうだと思います。これは日本でもそうだったし、韓国でもそうだし、自分自身の反応を振り返ってみてもそうだと思います。これは、是正すべきだとかそういう問題ではなく、言語に対する人間に備わった性質だと思います。英語の場合は、たぶん特殊でしょう。日本語の場合も、日本語を話す国がいくつかあって標準語というものがなく、そのいくつかの国のそれぞれ変種を使う人々が世界中にいたとしたら、本場の日本語と言っていられないと思います。

こういう感覚は、日本と韓国とでも微妙に違います。日本では関西方言はひとつの大きな文化圏と勢力を持って東京方言にいちおう対抗しようとしていますが、韓国ではソウル方言に対抗できる言語的勢力はありません。ですから、ソウル方言の位相は絶対的なものです。このような価値観の中で育った人は、日本語の地方分権的な言語観が全然理解できません。“全然”とわざわざ加えなければいけないほど、韓国の人にとって、東京方言以外はまともな日本語として認められないのです。その感覚で、英語に接していますから、日本人が持つ英語コンプレックスとは違ったタイプの英語コンプレックスがあります。おっと、話が脱線してしまいました。^^;

>人間の文章には、それぞれ違った味わいがあるものですが…
>ほしたら(そうしたらの大阪弁)、何ですか…言語の研究している人の書く文章は、つまらん、ということになるんでせうか。
>よ、よくわからん…
>第一、私は昔からずうっとずうっと疑問に思っているのですが、人間の文章の「味」のよしあしって、結局それを読む各個人の好みの問題に帰結されるのではないでせうか?
>それだったら、文法がきっちりしたスッキリした文章を愛する人もいるのでは…?

加藤先生の書きっぷりは、こういうところで人々の反感を買うと思います。まあ、私の文章は誰が見ても名文とはいえないでしょうが、ゆどうふさんのおっしゃるように、私がほめた大野晋氏の文章よりも、加藤秀俊氏の文章の方がいいという人もいる可能性は否めません。なお、夏目漱石の引用文ですが、夏目漱石が文法家の文章と和歌の研究者の歌を批判できたのは、夏目漱石自身が文章にも和歌にも(それから漢詩にも)長けた文豪だったからだと思います。私も人の文章をひょいひょい引用してしまいますが、気をつけないと、引用した文の作者と自分が同じ水準だと思っていると誤解される危険がありますね。加藤秀俊氏ぐらいになれば、夏目漱石に接近しているでしょうけれど、私などが引用するときは、扱い方に注意しないと、滑稽なことになってしまうかもしれません。

ところで、文法はいらないと主張する中で、日本語に主語は必要ないと主張している場所があります。しかし、日本語文法から主語を排除したら、文法がやさしくなるかといったら、そうではないと思います。そうすると、主語は補語(または補足語)の中に入るし、補語の中で親分格になるので、結局主語は扱うことになるからです。述語以外の文の成分を、主語と連用修飾語に2分する国文法は、実につまらないとはいえ、やさしいといえばやさしいものです。私はナム・ギシム(南基心)先生の統語論を勉強しましたが、そこでは述語以外の文の成分を、「必須的補充語」「随意的補充語」「副詞語」と分けていて、その他私が文の成分と考えていなかった「冠形語(=連体語)」と「独立語」も文の成分に入れています。そして、主語はその中で「必須的補語」に入ります。日本でも最近は同じような考え方をしている人が多いのではないかと思います。まあ、加藤先生は、文に必ず主語を書けと主張する人を批判しておられましたけれど、本当にそんな人がいるとは思えません。でも、批判するからには、そういう人がいるんでしょうね。

>私もどっちかというと、こういう問題を「クイズ」以上には見ていないので、同感しています
>…まあ、生徒みたいに…し、小学校5年レベルの漢字も読めないのも、どうかと思うんですけど…

漢字は知っているに越したことはありませんよね。古いものを読むことが多くなると、漢字の使用量が増えてきます。読めない字が多くなると、大変です。しかし、それをひけらかすのは、加藤先生もおっしゃるとおり、「まともな知的問題」とはいえないでしょう。私がかねがね疑問に思うのは、それらの単語を持ち出して、日本語にはこんないい言葉があったんだと言うだけで、その背景や使われてきた文脈などについての考察が欠けていることが多いということです。その単語が現代の文脈にちゃんと使えるのか、使っておかしくないのかという点に関する配慮はあまりしていないように思うのです。日本語にはこういういい言葉があると言われても、心の中で、そんな言葉は知らないと思うばかりです。加藤先生は漢字に関してだけ言及しておられましたが、私は、語彙や表現などに関しても、同じ脈絡で考えられると思います。

>私はポリシーというか、なんか方針として「絶対文法は日本語と対して教える」ことにしているのです
>規則動詞の過去は「日本語では『〜った』になるやん?おんなじように、英語では『-ed』やねんで〜」ってな具合に。

私も同じ考えです。英語の例を持ち出すのははばかられるのですが、たとえば日本語の「まだ〜していない」という表現は、「まだ」と「〜ている」が一緒に使われますが、英語なら“have not 〜 yet”と現在完了形が使われ、この両者が対応します。しかしこの「〜ている」は現在進行形ではなくて、実は完了の意味を表すもので、「かつて彼はこんなことを言っている」などのように使われる表現と共通する部分を持っています。つまり、「まだ(yet)」が用いられるとき、日本語も英語も、動詞が“完了”を表しているという点で、一致しているわけです。

実はこれは、韓国語の過去形「〜ハジ アナッタ(〜しなかった)」と日本語の該当する表現を比較しながら学生に教えているとき発見しました。韓国語の過去形は、“アジク(まだ)”が付いたときにも使用されますが、そのときの過去形は、ただの過去のことを言っているときの過去形と、形こそ同じだけれど、意味が違うことに気づいたのです。その過去形は、過去ではなく完了を表していて、日本語でもやはり完了を表していることに気づいたのでした。そして考えてみたら、英語では現在完了形を使っていたのです。この発見は、もしかしたら陳腐な常識なのかもしれませんが、私にとっては新鮮な驚きでした。

>その勉強のため、教科書買う必要があるのです^^
>なんかいいのがあったら、お教えください!

日本では私の知らないすばらしい日本語教材がどんどん出ているので、どれがいいとゆどうふさんにアドバイスするのは無理があるでしょう。大阪には確か凡人社の店舗があったと思うので、そこへ行ってみることをお勧めします。ただし、私の考えでは、英語を教えるためだったら、純粋に日本語を分析している説明よりも、英語と比較して説明しているものの方がずっと役に立つと思います。私も韓国語と比較することで日本語について発見することがたくさんありましたから。日本語について英語で解説しているものの中から選ぶのがいいと思いますが、新しいもので、かつ本格的な研究を土台にしている教材を選んだ方がいいと思います。手元にあるものはみんな古いものですが、その中でいちばん説明がいいのは、“Situational Functional Japanese”(凡人社)です。ただし、分量が多くて財布を圧迫します。そうそう、これはもう絶版になっているかもしれませんが、水谷信子先生の『基礎からよくわかる英作文』(旺文社、1994)は、日本語と英語の構造を対照しながら英作文の手ほどきをしているもので、私はすばらしい教材だと思います。日本語から説き明かすタイプの英作文の学習書で、これだけしっかりと日本語を扱えているものは、多分そうめったにないと思います。