> >以前『Go』を読んでいたら、そこにニーチェか誰かからの引用として、「怪物と戦う者は自分が怪物にならないように気をつけるべきである」というようなことを、主人公の父親が息子に言う場面がありました。この言葉は有名らしく、岸田秀の『幻想の未来』を読んだときにも引用されていました(どんな文脈だったかは忘れてしまいました)。 > >差別という怪物を意識するのは大切なことですが、うっかりすると、差別していると想定されるグループに対する敵意を持つようになります。これは、怪物と戦う者が怪物になってしまうことといえます。このクラブの話の流れを見ていると、そのところをよく理解している人が多いような気がします。これはすばらしいことです。ショウコさんが、アメリカ人が人種差別を克服しようとしている動きを映画の側面から見せてくださったことに、感謝したいと思います。 > >白人の有色人種に対する差別意識を強く意識している人もいますが、私の考えでは、それよりもむしろ、私たち自身の中にある差別意識や差別に対する意識を問題にした方がいいと思います。実際、海を隔てた遠くにいる人の心の中をどうすることもできませんが、自分の心の中ならどうにかできると思います。 > >これは実は、外国語学習において大切な態度だと私は思っています。自分が学習する言語を話す人たちは私を差別しているのだと思っていたら、学習意欲も相殺されてしまうでしょう。また、その文化には大変な魅力があるのに、それを鼻持ちならない不愉快なものとして感じるようになってしまいやすいです。そうすると、そのものの本当の価値が見えなくなってしまいます。 > >実際、90年代に韓国で日本語を教えながら、そのことをときどき感じました。学生の中には会社の命令で日本語を学ぶ人もいましたが、その中には、“日本人はわれわれを差別している”という意識で凝り固まっている人もよくいました。確かに日本では社会制度的に韓国人を差別するシステムがたくさんあったようですが、それと個人的な友好関係とは違います。“日本人はわれわれを差別している”という考えは、そういう個人的な友好関係までも覆い隠してしまうことが往々にしてあります。で、そういう学生は日本語学習にかなりの抵抗を感じているようで、伸びも芳しくありません。また、彼らは日本文化を取るに足らないものと見ていました。 > >経済危機のあと、韓国社会自体が大いに変化しただけでなく、私も職場が変わって、社会人がほとんど来ないところになってしまったので、私にとって90年代と2000年代の韓国はそれぞれまったく別世界なのですが、一つ面白いのは、今の職場では学生たちは日本に好感を持っていて、日本人と付き合ったり日本へ行ったりすることが好きだということです。そういう学生たちは、本当に日本語の伸びが速く、また、教えなくてもどんどん日本語の表現を身に付けていきます。また、日本へ行っても、とても楽しい思いをして帰ってきます。 > >外国語好きとしての結論は、差別について意識しない方がいいということです。外国に住んでいると腹の立つこともあるけれども、それは、外国語を勉強するときには忘れた方がいいでしょう。勉強するときは、その言葉を楽しむべきです。それがたとえ敵国の言語だとしても。そうすれば、私たちは少なくとも怪物にはならないでしょう。
差別がないところに、「差別」されたという意識は生じませんよね。 過去のことを水に流せるくらいになったし、アジアの成功者の国、日本にあこがれてるから若い世代はそうなれるのは認めます。 日本を見習えば、海外にも勇躍できる国家になれるはず・・みたいなね。 年寄りみたいに昔のことにこだわってたらやってられないって思うでしょうね。 私も思ってますし。
私もアメリカには子供のころからあこがれてましたから。現代の韓国の若者が 日本に対して感じる気持ちそのままでした。 だからすっごく、よくわかりますよ。韓国の若い人たちの気持ちが。 私なんか 日本が一番日本らしくなるお正月が一番嫌いだったくらい欧米文化と言語に 興味をもっていました。
敵対した感覚を私たちも持ちましょうとは決して言ってませんよぉ。 敗戦してから、日本人は過去にこだわらないから、 どれだけアメリカに対して、あこがれた話し方をしてきたか。 有識者は口をひらけば、欧米諸国では、アメリカではときりだして 結論=日本はおくれてるが過去のおきまりでしたもんね。 Japan
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No1っていう本がアメリカで出たころから、アメリカで言われた話にも こんなまちがいがわかったなんて、日本人によって言われるようになってきましたね。アメリカと日本は違う文化にあることを認識してから、相手の国の論理を考え直す姿勢も出てきました。
日本人はこんなふうにこだわらなくても、こだわる民族のほうが世界では多いから 要注意ですよね?
敵国なんて言葉が飛び出すなんて予想もしませんでした。(え゛っなんで そんな話になるの????って感じ)
語学を学んだら、実在する差別の糸口の助けになれたらいいねっていう 前向きな話なんですから。
現実を直視したら、「だって外国語学習って楽しい」だけでなく その国に残っている過去からの気持ちを無視してては会話は成立しませんよね?
裏にある相手の心から見た、日本人に対する意識のせいで 成り立たない会話ってあるはずです。
沖縄で、ここって外国みたいってうっかり言っただけなのに、現地の人に殴られた話がありました。(本州にはない、南国ムードや、日本に返還されるまで「アメリカ」であったためアメリカ文化と融合したところが多々あったのを その人は、感動して、沖縄が気にいって発した言葉なんです)
過去の戦時中において異国の人扱いして、本州の人間が沖縄の人を殺したところから始まってる話が原因です。それが戦後20年以上たってもありました。 アジアのお年寄りのなかには、うっかり話しかけられないムードがごくごく最近までありましたし。
若い学生さんだけ相手ならば、Okでも、お年寄りや大人相手だと、心にできた 壁をはずしてもらう必要があることもありませんか?
言葉を発する前に、心があり、文化があり、そのなかに過去も含有 するのではないのかなぁ。形式的言語学習でいいのかなぁっていう話 だったつもりなんですけど。 人の心、文化、お互いの過去、政治を知らずして、相手との会話は成立させようと していると、おのずと、誤解やいきちがいが生じるので 言語学習の行き着くところは、そういう勉強をしなさいと 外大の先生も、語学に関する本のなかでも多く語られている話だと確信してたのに。 実際そうだったし。
ここでは、海外の現地でも経験豊富で優秀なかたたちがいるので、その壁をどう感じているか聞いてみたかったのです。
ほんの少しの滞在でも、私は気にしていなくても、感じざるおえなかったので。 (一ヶ月あまりをアメリカで過ごしてから、しばらくは、日本の文化が あらためて好きになりました。とかいいながら、華道も茶道も着付けも書道(書道は師範)も、十分にたしなんでおります)
差別の言葉に強いインパクトがあるからさけちゃうの?って感じのながれだったんで。 はっきり言ってずっこけました。(笑)海外にいていっぱい感じてないはずがない と思ったもんで。実際聞いてみたらいっぱい出てきてたし。
語学に関して、最後にいきつく心の問題を語らず 言語学習のみについて話すならば、話すことはほとんどないです。
言語は地球でもっとも複雑な思考をする人間の語るもの。 NOVIOさんの場合は、仕事柄、直感的に、それらを感じて、うまくやっていらっしゃるんだなとは思いました。
怪物の餌食にはなってませんし、なるつもりもなかったのはわかってもらえると思ってたけどなぁ。
いつもはざまでもあり外側から見ている気持ちでもおりますよ♪
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