>>パターンプラクティス。実は、私もこのパターンプラクティスを重要視しているタイプの人間です。 >>オーディオリンガルメソッダーなわけです >>(過去の書き込み検索してみると、たくさん出てきます)。
おひさしぶりです。今年に入ってはや9ヵ国目とハイペースの海外出張で なかなか書き込みができない状態ですが、ご容赦を・・
ところで「パターンプラクティス」ぼくも愛好者ですよ。 また単調な訓練が語学上達の決め手であるとも思っています。
わたしの英語力(?)を飛躍的に伸ばした一文はこれでした。
The
trunk of an elephant is like an arm.
「象の鼻は腕のようだ」 この文をひたすら練習しました。 おそらく100回は繰り返したことでしょう。
トランカナヴァネリファンティスライカナーム・・
これができるようになってはじめて、やっと英語のリズムがうまく しゃべれるようになりました。
>私は短大ですが、一応、教職課程をとっていました。 >教育実習もしました。 >卒業後は学習塾で一年半の間、英語のアシスタントとして、 >授業についていけていない生徒を担当して、授業もしていました。
ぼくは法学部卒ですが、一応、外国語の教員免許をもってます。 教育実習で高校生を教えた経験は思い出でもありますし、 今の業務にも活きています。
>常日頃、頭でっかちで、英語に関する学術的分析はできても >英会話はできないという大学教授、高校教師、など >英語の専門家の先生がまず英会話ぺらぺらではないというのが >日本人として問題だと思っていました。 > >そういう自分も、ぺらぺらとはいかない。。。これにもいらだっていました。 > >また、英語教育のための教育方法を習う授業も >「それじゃあだめでしょう」と思う理論ぱかりでした。
日本人が英語をしゃべれない理由は大きくわけて3つ。
1)語順が違いすぎて、読み書きはいいが、後戻りできないので話す聞くができない。 2)はっきりと自己主張をし、誤りを恐れないという文化にない。 3)大学入試にでないので基本単語の意味さえ知らない。
指導教官からは君のことだから指導要領通りといってもきかんだろう。 自由にやっていいよ。といわれ、自由にやりました。 時間のほとんどは、 「アメリカって面白い。行ってみたい。話せるようになったら楽しいだろうな」 そう思わせるための漫談に費やしました。
脚韻を踏む詩を教える章では、教科書はいっさい開かず、 当時流行っていたロックやポップ音楽のみを使いました。 最後の研究授業では、英語で教える直接授業でギャグもちゃんとウケました。
なによりも最終日に生徒たちのひとりひとりから大量のお手紙をいただきました。 それをヨーロッパにまで持ってきているくらい今でも大切にしています。
>だいたいにおいて短大入学式の学長の言葉にこけました。 >「ここは英語を学問として習うところです。英会話が話せるようになる >学校ではありません。それを望むならば、専門学校に行ってください」とのっけから断言していました。 > >英語ぺらぺら、そして英語の文章をそのまんま訳さずに理解できなくて >なにが英語教育か。文部省のありかた、公立学校では冒険的な教え方のできない >当事の事情(今はどうか知りません。。。ただ私学ならば、かなり流動的に >できるようですが)
某東京大学の教授が、なんでアメリカ人にさえもわからない難解な英語の出題を するのか。生きた英語を学べないのは歪んだ入試のせいではないかと批判され、 「われわれは英語がしゃべれる人がほしいのではない。難解な悪文を読解できる 知能(IQ)をみたいのだ」と答えています。
ふーん。IQテストやればいいじゃん。英語教育を犠牲にするくらいなら。
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