最近の日本語は 「見られる」などの受身または、可能をあらわす「られる」を 可能をあらわすときに
「見れる」「着れる」などと本来「見られる」「着られる」とするものを ら抜きでいう言葉が、横行するようになりました。 外国人のかたにとっては
それが受身表現なのか、可能表現なのか 見分けがついて、このほうがいいと思うのでしょうか。 本来の形を重んじるべきなのでしょうか。 私は本来の言葉を大切にしたいという気持ちがかなりあります。
また「さりげなく」が「さりげに」 「なにげなく」が「なにげに」と短縮されています。
時代が速さをもとめるようになれば、言葉も変化するものだと 受け入れている文章を書くかたもいらっしゃいます。
ただ、私自身は本来の言葉を大切にしたい気持ちもありますが・・・
これらの変化した言葉を主に使うのは20代前後のひとたちです。
私から20歳近くはなれた人たちと、心のほうから近づいて 話したいという気持ちに重点をおくならば、
あえて、このような表現で話したほうが、心をひらいて話してくれるのは事実です。 一気にちぢまります。いちいち、相手の表現がおかしいと指摘していたら うるさいおばさんになるだけ・・・
話したい気持ちが先か、文化が先か。。。
人と人が通じ合うのが言葉ならば、気持ちが先なのでしょうか。
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