ijustatさんこにちわ!ゆどうふです。
>こういう話を聞くと、なぜか血が騒ぐのです。格語尾と格助詞との違いは、どう考えるかによって大きく違ってくるのですが、一般には、自立形態(free
form)に付いた依存形態(bound
form)を単語と認め、その中でも活用語尾が付かないものを“助詞”と呼んでいます。この考えでは、日本語には格語尾は存在しないことになります。なぜなら、名詞は必ず単独で自立形態になるからです。(学校文法の助動詞の設定は、自立形態と依存形態が絶対的な基準にならないので、活用語尾との区別の仕方が曖昧になり、どんな考え方があるのか、よく分かりません。今度勉強します。^^;)
血が騒ぐのは、やはり日本語の先生だからでせう(笑) メラメラですね、先生魂^^ なるほど、日本語の名詞はそのままで意味がありますからね 活用する語尾とは、助動詞的なものでせうか(「〜れる(可能)」みたいな…) となると、やっぱり助詞は「が」とか「に」みたいなやつですね。
>しかし、日本語では事情が多少異なると思います。「癒しの賜物を」という文は、「[癒しの賜物]を」という関係になっています。つまり、助詞「を」が、「癒しの賜物」という名詞句全体にかかっているのです。ですから、語順を変えて「癒しの、持っている。賜物を」とすると、違う意味に解釈されてしまいます。このように、日本語では、助詞がその前の名詞句を統率しているために、その中に文の他の要素が入ってこられないのだと思います。 > >(「賜物を持っている。癒しの。」が「癒しの賜物を持っている。」という意味にちゃんと解釈できるのは、文を超えた談話のレベルでの問題だと思います。) > >で、助詞「を」は、形態的には「賜物」という名詞に付いて、この語を“対格”にする働きを持つものですが、それだけにとどまらず、その前に連体形の表現が来たら、それをすべて、対格の名詞句の中に組み込んでしまう働きも持っています。
「賜物を」「持っている」「癒しの」えー不思議^−^; ちょっとギリシア語とでは構造の型が違っているみたいですね 「を」のおかげで、語のまとまりが出来ているわけですね。
>こういう助詞の統語論的な働きを特に強調しているのは、生成文法を掲げる人たちで、韓国では、助詞をこのように見る傾向がとても強いです。私も、この考えに強く影響されているようです。^^; > >このように、用語一つを突ついてみると、それをめぐる世界観が吹き出してきて、とても面白いと思います。重箱の隅を突つくのも、ご飯を残したらもったいないということもあるけど、そこに残っているご飯に、うなぎのタレがたっぷりと染み込んでいるからでしょう?
そうですね^^ たれがたっぷりからんでいるのが重箱のそこにあるご飯のほうのように、 用語一つにもその学派学派のテイストが出ているというわけですね。
>そうですね。でも、私が英希辞典にちょっと冷淡になってしまうのは、どうも私が英語を“間に合わせの言語”と感じているためのようです。国際的に、非母語話者たちが英語をたくさん使うので、その場で意思疎通ができれば、それでいい、という気持ちが、どうしても強いのです。本を読むときは、正確な理解がしたくて、コリンズの辞書などを丹念に読むことがあるのですが、いざ自分が使うという段になると、きちんとした英語を使う意志が、かなり欠けている。これは、最近私が気付いた、自分の傾向です。もちろん、これは望ましい態度ではないので、改善しようと思います。
ああ、自分の中で順位があまり高くないということですね。 それも素直な感情として、わかる気がします^^ 私は好きでドイツ語を大学の専攻にしたわけですが、他の大学だと 単位のため、「しかたなく」選ばねばならない外国語授業 としてドイツ語やフランス語が設置されているらしいです。 そういうところの生徒は、つらいだろうなーとは思います^−^;
でわでわ! ゆどうふ。
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