ドッキドキ!ドクター・ヘルの羅武理偉(ラブリィ)三国志珍道中☆ (9)


臥龍の挑戦:2


「ヘル様!ヘル様!」
「…何だ」
それは、秋晴れがとてもさわやかなとある朝。
勢いよく己が主君・袁紹軍校尉ドクター・ヘルの自宅を訪ねてきたのは、その副将・アシュラ男爵だった。
夏圏使いの少女はいつもどおりはきはきとした元気のよさ。
だがその一方で、低血圧気味のヘルはまだ少し胡乱とした表情のままである。
「よお、アシュラ。そんなに急いでどうしたよ?」
と、座して己の妖杖を手入れしていた少女も、彼女の来訪に顔を上げた。
同じくヘルの副将、妖杖使いのブロッケン伯爵。
そんな彼らに向かい、本当にうれしそうな様子でアシュラはこう述べた…
「あの、あのですね!是非会って頂きたい方がいるんです!」
「…?」
アシュラの言に、軽く眉をひそめるヘル。
副将が自分に会わせたい、客がいる…?
今までそのようなことを彼女が言い出したことはなかったため、やや戸惑っている。
しかし、彼女はそんな主君の困惑など一向に気にせず、
「どーぞ!」
と、玄関に顔を出して誰かに呼びかけた。
すると、その声に呼応して―
ひとりの大きな影が、ゆらり、と、朝の眩しい陽光の中にゆらめいた。
「…!」
ヘルの深緑の瞳が、軽く見開かれた。
アシュラに導かれ、中に入ってきたのは…一人の、大柄な男。
がっしりとしたその肉体は、鍛え上げられた戦士のものであることを如実に示す。
その両の目に宿るは、静謐な知。
そのあごを真白き長髭、その顔を生き抜いてきた年月で飾る。
何より目を引くのは、その背に負った大斧―
使い込まれたものであろうその斧は、歴戦の傷も誇らしく。
たたずまいを見ただけで人は察するはずだ、そうせざるを得ない。
この男は、この老爺は―未だ健在たる戦士である、と。
「…お初にお目にかかります、ドクター・ヘル殿」
そして。
老爺は、その泰然たる風体をいささかたりとも崩さず、遥か若輩たるドクター・ヘルに慇懃な拱手をした。
…ヘルは、無言。
口を開かぬまま、部屋の中央に座したまま、老爺を見返している。
「あ、あんた…?」
「…私は、」
突然の来訪者に驚いていたブロッケンが、こわごわと問い掛けると。
老人は、静かに微笑し…その低く落ち着いた声音が、その名を紡いだ。


「私は、大斧使いの暗黒大将軍と申します。仕えるべき主を求め、諸国を巡っております」


「えへへ、私の文通相手の一人なんですぅ」
「ぶ、文通…ねえ」
そこに元気よく言い添えるアシュラ男爵に、ブロッケン伯爵はなおさらに困ったような顔で苦笑う。
どうやら彼は彼女の趣味、文通で知り合った仲間のようだが…
だが、その大斧使いがここに何用だと言うのか?
「…それで?用向きは?」
「ドクター・ヘル殿」
問う若き夏圏使いに、暗黒大将軍と名乗った老爺はこう答えた。
「先だっての、諸葛亮殿の出された難題…あなたの戦いぶりを見ておりました」
「…」
「なるほど、まだまだ荒削りですが…その武、その知略、なかなかに見るものがあります」
そこで、老人はにこり、と微笑んだ。


「あなたの才に、私の命運を賭けてみるのも一興かと」
「そ、それじゃ…」


「あんた、暗黒大将軍…だったっけ」
「左様」
「つまり、あんたはヘルさんの副将になりたい…ってことなのか?」
「…」
「そうでーす!」
ブロッケンの問いに、暗黒大将軍は首肯で答え、アシュラが元気よく返事する。
「暗黒大将軍さんの大斧はすごいんですよ!きっと、ヘル様のすっごい力になるはずですぅ!」
「へえ…そいつぁありがたいけど、よ」
が、アシュラの意気込みに対して、ブロッケンの返事はどうも切れが悪い。
「…?何か、問題でも?」
「アシュラ、ほら…おっさん、」
彼女は何処か気まずそうな表情で、軽く指で主君を示す…
と、そこには。
「…あ!」
書机に向かい、兵法書を読み出すドクター・ヘルの姿!
せっかく連れてきた客をほっぽらかして、何と言うことをするのだ…
肩を怒らせたアシュラが詰め寄り、揺さぶるも。
「ちょ、ちょっと!ヘル様、ヘル様!」
「お引取り願えアシュラ」
「え、えーッ?!」
あっさりと冷たく、そんなことを言ってのける始末!
あまりの反応に、素っ頓狂な声を上げるアシュラ。
「な、何でですかぁ?!何で…」
「―俺は、」
そんな彼女に目もくれず、書に視線を落としたまま、飄々とヘルが言ってのけることには―


「俺は、美しくないものは嫌いだ」
「ちょ…ッ?!」
「…」



「俺は美しい者しか取り立てん。というわけで、悪いが帰ってくれ」
「な、何てこと言うんですかぁぁぁあ!」
「はあ…ったく、予想できたことだろ、アシュラ」
「…」
とんでもなく失礼千万な理由をあっさり言い放つヘルに、アシュラが顔面蒼白で抗議する。
そんな様子を呆れ顔で眺め、ぽつっとつぶやくのはブロッケン伯爵。
…老爺は、無言。
無言のままで、銀髪の男を見ている―
「せせせ、せっかくすっごく強い人を連れてきたって言うのに!馬鹿馬鹿ヘル様の馬鹿!」
「くどい!俺は美を愛する、とうに盛りを過ぎた花など愛でぬのだ!」
なおも続けられる、ヘルとアシュラの言い争い。
頼れる副将候補を見つけ出して連れてきたと言う気負いのあるアシュラは、一向に引き下がろうとしない。
が、ヘルも同様…
己の基準に満たない者を配下に取り立てる気はいささかもないらしく、首を縦にふろうとはしない。
そんなやかましい口喧嘩を、しばらく暗黒大将軍と名乗った大斧使いは黙って観察していた…が。
やがて。
「…ふふふ」
「―!」
物柔らかな、笑い声が。
それ故に一層、皮肉の色を帯びて空気中に散った。
ヘルの瞳が、再び目の前の老人を射る。
「…何がおかしい、ご老体」
「いや、やはり…お若いな、と思ったまで」
深緑の瞳に、怒気が入り混じる。
険しさを増したヘルの眼光を受けても、しかしながら暗黒大将軍は緩やかに笑うだけ。
そうして、やはり温順に。
温順に、それでいて的確に放ち返すのは、苦言。
それも―
「見た目に惑わされ本質をとらえられぬ…
真の美しさを見抜く目は、やはりまだお持ちではない」
「…!」
ドクター・ヘルという男が最も自負し最も尊き物として抱くその概念、それを表す言葉を使って、面罵した。
すなわち、真の「美」を見る力を持たぬ、と。
あえて、放たれたその言葉に。
さすがのヘルも、その顔色を変える。
だが老人はなおも言うのだ、重ねて。
何処か達観した、見下した言葉。
「あなたには修養が必要なようですな、ドクター・ヘル殿。
その武も知も、…美ですらも」
「…」
静まり返った。
いや、硬直したのだ。
その場の空気が、まるで金属のように硬質で冷徹に…
喉から入り込み肺腑をもその冷気で固まらせるかのごとく。
「…抜かしたな、ご老体よ」
その台詞を吐き出したヘルの顔には微笑みこそ浮かんでいたものの、瞳にまではそれはなく。
彼が暗黒大将軍に向けるのは、まさしく圧縮された殺意。
彼の最も尊ぶ物を無造作に(あるいは計算づくで)傷つけた老人への。
「俺が、…お前に劣るとでも?」
「左様」
「…ッ?!」
その認識には何の間違いがない、とでも言うように。
笑んで、老人はうなずく。間髪いれず。
「あなたは、まだ幼い。それだけのことです」
「ぐ…ッ、」
「そんなあなたを、より高みへと導く…というのも、なかなか面白いでしょう。
少なくとも、しばしの退屈しのぎにはなりそうですね」
「き…貴様ッ!」
更に叩きつけるのは、穏健さでまぶされた挑発。
くすくすと微笑みながら。悪戯っぽい瞳で。
年輪のごとき皺の奥に隠された瞳の中は読み取れない、その真意は読み取れない。
老人のそんな態度に、銀髪の男の怒りは募るばかりだ。
その怒りの形相たるや、今にも老爺に飛び掛らんばかり。
ドクター・ヘルが、怒鳴り返そうと再度唇を開いた―その時。
「…なるほど、話は全て聞かせていただきました」
「うおわッ?!」
「しょ、諸葛亮さんッ?!」
唐突に室内に響いたのは、そんな穏やかな台詞。
虚を突かれぎょっとなったアシュラとブロッケンが見返れば、そこには…真っ白き装束をまとった、あの男の姿。
戸口に立ち尽くしているのは、未だ眠れる龍…諸葛亮!
「…い、一体いつの間に入ってきやがっ」
「つまりは、どちらが優れているか…それを如実に示す必要がありますね」
「き、聞いてねえ…!」
「そこで、なのですが、」

ぱん、と。
手にした羽扇で、左の手のひらをたたき。
彼は、こんな提案を持ちかけた(ブロッケン伯爵のツッコミには一切反応しないで)。
「今日は、ドクター・ヘル。あなたにまた試してもらいたい策があるのです。
その策…どちらがより完全に近い形で決することが出来るか…
それで両者の実力を計ってみる事にしては?」
「…ふん、面白い」
軽く、鼻を鳴らして。
ドクター・ヘルは、暗黒大将軍を見やった。
「あそこまでの口を叩くのだ…当然、逃げはせんな?!」
「当然」
半ば怒号のような挑発に、老人はあくまでも平静にうなずく。
そして、その齢を重ねた深みのある微笑をもってして…若造の顔面に、煽り立てる台詞を投げつける。
「あなたがまだ世の広さを知らぬ井の中の蛙であること…思い知らせてあげましょう」
「く…ッ!」
苛立ち紛れか、不快げに漏らす舌打ち。
整った夏圏使いの眉目が、貶められた怒りに歪む―
刹那、彼と老人との間に凄まじい緊迫感が走る。
思わず、アシュラとブロッケンは、その場から一歩後ずさってしまった。
それは、まるで電光のような。
闘志と闘気が真正面からかち合うような、周りに立つ者すら怖気づかせてしまうほどの…
「それでは、話もまとまったようなので」
が。
そう言った類をまったくものともしない諸葛亮は、やはり臥龍。
龍ならではの豪胆さで(あるいは、鈍感さで)、その場の空気を引きちぎり、
「参りましょうか…試練の地へ」
さっさと話を前に進めようとするのだった。


諸葛亮のこのたびの策。
それはすなわち、敵の兵站を奪取し、自軍のものにする…
孫子も重要視する策、「敵に食む」であった。

かの孫子も広く用いたように、
弓矢は戦において最も効果的な武器のひとつと言えます
ですが、それゆえに弓矢は戦場で著しく消費されるため
兵站を圧迫するものとなります
では、どのようにすべきか…
すでにお気づきのようですね
敵の弓矢を奪い、自軍に転用するのです
いわく「智将は務めて敵に食(は)む」
敵の戦力を転用することは、基本的な策のひとつですからね
時間内に弓矢を100以上集めるのです
結果次第ではあなたの名を序列に記してもよいでしょう


「では、まず俺が行こう」
「どうぞ」
用意された戦場。
見下ろすその広い川島には、もうすでに待ち構えている軍がいるようだ。
己が愛用の夏圏を手に、銀髪の男が前に歩み出た。
「ふん…その枯れ果てた節穴の目、かっ開いてよく見ているがいい」
ちらり、と、視線をあの憎たらしい老人に向けて。
彼は、絶対の自信を込めて宣言した…
「真の美しさを!真の俺の実力を!」
気迫あふれるヘルを前に、諸葛亮が促す。
「敵味方の布陣は確認できましたね?」
「ああ」
「敵兵はすべて弓兵または弩兵です…
制限時間内に、できるだけ多く倒すのです」
「承知!」
短い返答を返すと同時に―
若き夏圏使いは駆け出す、戦場へ!
「それでは―はじめ!」
「…!」


「俺が、あんな老いぼれに劣る…だと?」
ひょう、と風切り音。
一斉にヘルに向かって降りかかる矢の雨。
「武も、知も、…美ですら、だと?」
華麗に舞い飛び、それを避け。
投擲する夏圏もまた、空間を引き裂いて。
「在り得ぬ!在り得るはずがないッ!」
普段ならば婦女子の目を惹くだろうその美貌は、だが今は壮烈な怒りに支配されている。
自分を侮った、貶めた、あの不敵な老爺。
あの老爺の言葉が、油断すればすぐに耳の中で反響する。
(だが…何だ、あの爺の、あの余裕!)
そして、あの意味ありげな笑み。
この自分を「幼い」と言い切った、真の「美」を見る目すらないと言い切った。
あの笑みがよみがえる度、かあっと脳が煮えたぎる。
「不愉快だ、実に不愉快だッ!」
だから。
不愉快なあの笑みを、老爺から消し去るために。
一人でも多くの兵を倒し、一つでも多くの弓矢を集める…
うなる夏圏。飛び散る悲鳴。
まったくに不幸なのは、半ば八つ当たりのようにその標的とされる弓兵たちだ。
ひるがえる夏圏。吹き飛ぶ弓兵長。
「あーーーー!」
「ぎゃおおおおお?!」
「ひああーーーッ?!」
ヘルの美しい演舞の犠牲になって、ひとりまたひとりと倒れていく。
何と苛烈な、夏圏の舞い―


「ほう…」
定められた時間が過ぎ、そして―
諸葛亮が、感嘆の声を上げた。
「505人、ですか。素晴らしい」
「ふん…」
軽く鼻で笑い返したものの、ヘルも相当に体力を消耗したらしい。
肩で息をしている様子を見ると、かなり無理をしたようだ。
「あの短い時間で、よくぞやり抜きましたね。
計算以上の働きでした、あなたなら10万の矢を集めよと言われようと
3日もあれば実現できましょう」
「…」
諸葛亮の褒め言葉に、だが、銀髪の男の表情は変わらない。
そう、今や彼の目的はそんなところには無くなっていた。
額に浮かんだ汗を拭いながら、荒くなった呼吸を整えながら、
彼は、老爺を見た―
「…」
「…さあ、次は貴様の番だ」
自身のうち立てた記録は、そう簡単に敗れるようなものではない。
諸葛亮の言葉通り、あの短い時間の中でやり遂げるにはかなり厳しい。
それを、この老い先短い爺いができるものか。
その半数でも出来ればたいしたものだ―
ヘルの頭蓋には、既にそのような不遜な勝利の確信が在った。
「見せてもらおう、貴様の実力!」
「…承知」
老爺は、こくり、とうなずいて。
そして己の大斧を手に、一歩歩み出る。
「武略も、知略も、美ですらも…目に映る物が全てとは限りませぬ」
軽くヘルを顧み、微笑みひとつ。
高みから見下ろした見下した、やさしい率直な苦言。
「それがわかっておられないあなたは、まだやはり幼い」
「…!」
ヘルの表情がまた怒気に彩られるのを穏やかな笑みで見送り、老人は進む―
大量の弓兵弩兵が待ち受ける、戦場へと。
「では、私の大斧…お見せいたしましょう」
びゅん、と、振りかざすは豪大斧。
暗黒大将軍の歩みが、やがて走りに変わっていく。
「大海があなたの狭い想像力より遥かに広い事…痛感なさるがいい」
「―はじめ!」
諸葛亮の合図が、空気に轟きわたった―!
駆け出していくその背中を冷酷な視線にて見送りながら、ドクター・ヘルは嘲笑めいた笑みを貼り付ける。
「はん、老いぼれが何処まで気張れるか、見ものだな」
「へ、ヘル様!」
「だが、途中でくたばられても困る…いつでも出れる準備をしておけ」
「…お、おい!」
しかし―
ヘルのその高慢な言葉に割り入るように、ブロッケン伯爵の叫び。
彼女が指弾する先に、あの老人の姿―
「あれ…!」
「―な、なッ?!」
敵のさなかにありて、微動だにせず、
暗黒大将軍は、闘気を燃やす!
「はあああ――――」
その全身から放たれているのは、紫雷。
いやそれは目の錯覚などではない、まさしくそれは雷光。
呼吸を整え気を整え、己の中の生命力を滾らせている…
異様な空気を四方八方に散らすその老人の有様に、弓兵たちは怖じ、矢を射掛けることも忘れ身をひいている!
そして―
彼の体内に巡るその生気が、臨界点にまで達した時!
「――――ッッ!」
老人は、かっと目を見開いた―
同時に閃光が、彼を中心としてぱあっと花開く!
放たれた火花に驚愕し、逃げ惑う弓兵たちが逃げ惑う!
だが―
「?!」
「えっ!」
「―ッ?!」
真に驚くべきなのはその余興たる稲光では、ない!
ヘルが、アシュラが、ブロッケンが、目を見張る―
そこには、最早、あの老人の姿はなかった、
「久々に、血が滾りますね」
そのかわりに見えるのは、
赤き髪をなびかせた、
その眉目秀麗たる、
紅顔の美青年―!
その秀麗なる顔立ちの青年は、だがしかしあの老爺とまったく同じような穏やかな微笑を浮かべ、
同じ闘志を燃やし、
「…さて、参りましょう!」
手にした大斧を振るうのだ…!
あがるのは、弓兵たちの悲鳴。弩兵たちの絶叫。
その光景を目の当たりにしながら、
「わ、わ、わ、」
「若返っ…若返ったぜ、あのジジイ!」
「…ほう、さすがに驚きましたね!仙術でしょうかあれは」
「…!!」
動転するアシュラ、同じく狼狽のブロッケン、しかしながら孔明は相変わらず冷静さを崩さない。
ドクター・ヘルは、夏圏使いのドクター・ヘルはと言えば…
その面を凍りつかせ、暗黒大将軍を凝視しているのみ。
再び若き日の姿に戻った大斧使いは、高く舞う―
「はあっ!」
叩きつける大斧の勢いが、弓兵たちを吹っ飛ばす!
そしてその闘気の凄まじさか、そこからぱあっと散っていくのは―
「な…」
ヘルの喉が、驚愕で締め付けられる。
嗚呼、麗しく散っていくのは―
豪奢で華麗な、桜吹雪!
「なん…だと…ッ?!」
軽々と振り上げ大地を割るその一撃一撃。
凶悪無比なる斬撃を彩る、艶やかな花弁の舞。
銀髪の男が見る見るうちにその顔色を失っていく。
だが、その両の瞳は、大斧の男に釘付けにされたまま―
そして。
次の瞬間。
彼の狭量な自意識は、音を立てて砕け散った。
真っ赤な髪を揺らがせて、空間を破りとる大斧の衝撃、
その衝撃が大地を貫き、そこから生じたのは―
「…ッ?!」
「わあ…!」
「すげえ…!」
副将の少女たちは、思わず声を上げてそれに見入った。
虹色にて編まれた、繊細なる胡蝶の幻影。
ふわりと生まれしばし空をたゆたいそうしてはかなく薄れて消えていく、
そう、それは、闘気が魅せた幻惑、美しい胡蝶の群れ…!


「ぐ…う、ううっ!」
538人。
最終的に暗黒大将軍が倒した弓兵たちの数は、ヘルのそれを大きく上回った。
だが、銀髪の男を何よりも揺さぶったのは、そのことではない。
それが証拠に、ヘルは今。
己の全てを打ちのめされたかのように、地にくずおれ泣きじゃくる…
「負けだ…俺の、負けだ…ッ!」
「…」

深緑の瞳から、涙が後から後からわいてくる。
無念さが流させるのか、それは一向に枯れる気配もなく。
目の前でがっくりと頭を垂れ慟哭するヘルを、大斧使いは何処か困ったような表情で見ている。
「技で負け、そして…俺は、おれはッ、…美しさでも、負けた!」
ぼろぼろ、と、大粒の涙が惜しげもなく地に落ちていく。
「桜吹雪はおろか、俺が出せぬ胡蝶まで…ッ!」
そう。
美しさを要求される武器、夏圏。
桜扇などと同じく、その武を極めた者は己が闘気を桜吹雪に変え、敵すらも魅了することが出来る。
男の身であれどそれを自在にこなせたことは、美しさを何よりの身上とするドクター・ヘルにとって今までかなりの自負であったのだが…
まさか、それを無骨なる武具・大斧にて出すとは。
しかも、張コウ将軍のような位の高い、数えるほどの大将軍しか出せぬ蝶の幻影まで放てるとは!
最早、自分の敗北は明らかであった。
いや、それどころか…己の技量のあまりに矮小なことが、今はひたすら悔しく、そして恥ずかしい。
「くそ…くそうッ!」
「そう嘆くものではありませんよ、ヘル殿」
涙をこぼしながら震えるヘルに、しかしながら…
赤き髪の青年は、穏やかに笑いかけ、やさしくその肩を叩いてやった。
「言ったでしょう?あなたはまだお若い。
これからいくらでも、伸びていけるはずです」
「…!」
「そのために、私の力をお貸しいたしましょう…
あなたが真の意味での『美』を操る者となるためにも」
そうして、軽く首をかしげ、にこり、と微笑む―
嗚呼、あの老爺の姿の時と、まったく変わらぬ叡智に満ちた笑顔。
「ぐすん…お、俺も、胡蝶も出せるようになるだろうか?」
「ええ、修練怠らねば…必ず」
「…」

涙を乱暴に拭いながら問いかけるヘルに、やはり暗黒大将軍はやさしげに笑いかける。
相手を包み込むような、偉大なる師父のごときあたたかさ…
そんな、二人の青年(片方の正体は老人だが、今見た目はともかく青年)の姿。
そんな彼らを遠くから(というより、遠巻きに)見ていたのは三人、
アシュラとブロッケンと諸葛亮…
「…」
「…」
「…」
「…ふむ、」
と。
諸葛亮が、動いて。
「これ、お渡ししておきますね…今回の礼、と言うことで」
「あっ、え、あ…ど、ども、」
「私はそろそろ次に行かねばなりません。それでは、またいずれ…」
「え、は、はい…」
流れるような挙動で軍資金をブロッケンに渡し、まったくその動き澱むことなく去っていった…
すると。
その場には、副将二人がたたずむのみ。
「…」
「…」
「…どうする」
「んと…」
そして、残された二人。
「…いいんじゃないでしょうかね、あれで」
「そうかなぁ…」
アシュラ男爵と、ブロッケン伯爵。
二人の少女が見下ろす先に。
がっくりと、まるで己に絶望したかのような落胆ぶりで地に座り込んだ青年と。
にこにこと、まるで息子を見るような慈愛溢れる面持ちで彼を見つめる青年と。
二人の青年の姿。
今日より主君(兼・弟子)とその副将(兼・師匠)となる、二人の青年の姿がある。




それは、とても気持ちよく晴れた、秋のある一日のことだった―





Back