お母さん、元気ですか?
いろいろあったけど、私は元気です。
仕える将を探し、里を去った娘。
その娘からの便りは、こう始まっていた。
私は、ドクター・ヘルという方にお仕えすることになりました。
最初に会った時、その方はとてつもなく恐ろしく見えたもので、この先私はどうなってしまうのかと不安で不安で仕方なかったものですが…
ですが、落ち着いてお話してみると、思ったよりも彼の方は真摯な殿方でした。
よく難しげな書を読んでいらっしゃいますし、そうして寡黙に研鑽に励まれるお顔も、よく見ると殊の外整っていて、その涼しげな瞳には知の輝きがあります。
彼の方は、今はまだ低き身分でいらっしゃいますが、それはそれは高い志(こころざし)をお持ちでした。
「…び?」
「そうだ」
ドクター・ヘルの家にて。
己が将(半ば誘拐のようにつれてこられたのだが)、男と相対し座る少女は、彼の発した単語をそのまま繰り返した。
夏圏使い・アシュラ男爵を前に、銀髪の男…ドクター・ヘルは、鷹揚にうなずく。
そして、重ねて問い掛ける。
「お前にとって、『美』とは何だ?」
「え、っと…」
アシュラ男爵は、その予想だにしなかった主君からの問いに戸惑い、言葉を濁した。
なぜそんなことを問うのかもわからない、謎めいた問い。
「俺にとっては、な」
軽く、微笑む。
深緑の瞳が、静かに微笑う。
「生きていくうえで、何よりも大切なものだ」
「は、はあ…」
瞥見すれば、その相貌と視線の鋭さが周囲を多少怖じさせるだろうこの男の口から、またも飛び出す意外な言葉。
「美」を、「生きていくうえで、何よりも大切なもの」だと断じるその口調は、だがしかし真剣味を漂わせていた。
ヘルは、困ったような顔をして自分を見返す小さな少女にもう一度微笑みかけ、続ける。
「美しさ、とは何だ?…それは、数限りなく例を上げることが出来るだろう。
また、ひと一人ひとり、その目に映る美しさも、また千差万別たる」
師が弟子をさとすように。穏やかに。
彼は、彼の哲学を語った。
この世界に対する、彼の信念を。
息を呑み、かしこまって少女はそれを聞く。
「だが、禽獣はその感覚自体を持ち得ない。畢竟、『美』とは人間のみが感じられる物…
言うなれば、理知を備えた人間のみが感じられる、尊き物だ」
「…」
「例えば、仁・義・礼・智の徳は尊ばれる。何故なら、その心情は美しいからだ。
惻隠・羞悪・辞譲・是非・仁義、人間しか持ち得ぬその心情は、素晴らしいからこそ美しい」
そして、彼は…彼の深奥を貫いている物を、こう一言に引っくくる。
「美しい、と言うことは、正しいこと…つまりは、『正義』なのだ」
「だが、見ろ。この今の世を」
「…」
しかし、一転。
彼の口調に、重い影が差す。
「弱い者が踏みにじられ、互いに苦しめ合っている。
強者が覇を争う一方で国は疲弊し、民が生き延びていくことすら容易では無くす」
「…」
「俺はな、アシュラよ」
吐息に、確かな熱気を混ぜて。
銀髪の男は、直ぐな瞳でこう言い切った。
「一刻も早くこの戦乱を終わらせ、平和な世を造りたい」
「美しさを愛することの出来る、人間にとってふさわしい世を」
「そうして、皆が安堵して日々を暮らし、この世界の美しさを愛でられるように。
それが…それこそが、俺の望みだ」
多くの人が望んでいるのと同じことを、彼は己の信念から望む。
そのために、今、彼はここに在るのだ。
「…そうなんですか」
「ああ」
少女の喉を、感嘆の声が震わせる。
穏やかな微笑で、男は応じる。
その静謐な微笑を見つめるアシュラ男爵の頬に、静かな感動が朱をさした
嗚呼、自分は今までこの男を誤解していたのだ―
確かに初対面での印象は最悪だった(それに扱いがあまりに強引だった)が、今の彼の言葉は何と真摯なのか。
こんなにも、こんなにも、彼は平和を、美しい世を望んでいる―
そして、そのために己が命をも賭けようと。
少女の胸に、じんわりと暖かい何かが拡がって行く。
これからの戦乱の時をこの男とともに戦い、この男に付き従おう。
そう心底より初めて自ら強く思った、その感慨が―
…と、その時。
どんどん、と、やや乱暴に家の扉を叩く音。
「もしもーし!ドクター・ヘルさん?!」
「!…ああ!」
ぱっ、と彼は立ち上がり、扉を一挙に開け放つ。
すると、そこには小柄な男がそこそこ大きめの包みを持って、立ち尽くしていた。
「ども!仲買の使いの者です…お待たせしました」
「おお、待ちわびたぞ」
「それじゃ、確かに渡しましたよ!あっしはこれで!」
「ああ、礼を言うぞ!」
そしてその包みをヘルに渡すと、さっさと帰ってしまった…
ドクター・ヘルがなにやらうれしそうにその包みを解くと…
中から、朱や黄、赤の鮮やかな軽鎧が現れた。
まるで桃の花のように可憐に踊る袖、ひらりと舞う花弁のように軽やかな裾。
可愛らしいその鎧は、多くの女兵士たちに愛用されている女性用装備…
「それ…舞闘姫・桃ですか?」
「ああ」
「…!」
ぱあっ、と、アシュラ男爵の表情が明るくなる。
嗚呼、何と言うことだろう。
この方は、私のための装備まで用意してくださったのだ…
「あ、…ありがとうございます、ヘル様!」
喜びでその顔をいっぱいにした少女は、笑顔でぺこり、と頭を下げる。
そして興奮覚めやらぬ、と言った口調で、己の主君をきらきらした瞳で見つめて力強く誓った―
「そんな素敵な鎧まで賜れるなんて…私、これからも、あなたのために身命を尽くしますッ!」
…が。
「…?」
何故か彼女の主君は、彼女の誓いを不可思議そうに聞いていた。
いや、それどころか。
「何を言っているのだ?」
「…え?」
不可思議そうに、問い返す。
きょとんとした少女に、続いて彼が言った台詞。
その台詞が脳を通り過ぎた瞬間、彼女の思考はぽーん、と破裂した。
もちろん驚愕と衝撃と憤慨と痛嘆で。
「何を勘違いしておるのか知らんが、こいつは俺のだ。俺が着る為に買ったんだ」
「は、はああああああ?!そ、そ、それ、女物ですよ?!」
「だから?」しれっ、と言い返すその表情、真顔である。
その真顔をまじまじと見るにつけ、彼が本気でそう抜かしているのが否応無く理解できてしまう。
「ちょ、あ、お、おかしいですよ、そんなの!だだだだって、ヘル様は…」
「俺は美しい物が好きなんだ、何でもな…さて」
「?!あ、え、ええー?!なななな、何してるんですかッ?!」
あわあわとなってしまったアシュラ男爵の前で、これまたいきなりの突発的事態。
彼はいきなり身に纏っていた八卦師法衣を脱ぎだしたのだ。
上半身は裸に、下半身も白い下着姿。
唐突な上司の脱衣に気も狂わんばかりに動転するアシュラを平然と見返し、ドクター・ヘルが言うことには、
「見てのとおりだ。早速こいつを着用してみようかと…」
「な、な、なな何馬鹿なこと言ってるんですか、絶対着れません!
そそそんなご立派な身体つきをしていて、こんな華奢な服が着れるはずありません!」
間髪いれず言い返すアシュラ男爵は、両腕に舞闘姫・桃をしっかり抱え込んで彼から必死に遠ざけながら、真っ赤な顔をして睨み付けてくる。
確かに筋骨隆々たるその体躯が、愛らしくそして女性にとっても小さめのその鎧に収まるとは考えがたい。
というか、誰がそんな光景を見たいというのだ。
ひらひらふわふわの愛らしさ抜群の女性用鎧を身に着けたムサい兄ちゃんの珍装など…
ていうか、そんなことをされたら、この舞闘姫・桃が哀れ極まりない!
しかし、ヘルにとってはそんな一見してわかりそうなこともどうでもいいようだ。
現に、あっさりとこう言い放って、アシュラに催促するだけだ。
「やってみなくてはわからんではないか!ほら、寄越せ」
「だ、だ、駄目です!駄目ですそんなの!仲買商に返しましょう!」
「いいから寄越せと言うに!」
「駄目です!駄目です!そんなヘル様、見たくもありません!
ていうか着たら壊れます!絶対舞闘姫壊れます!そしたら買取りしてもらえませんよ!」
ダメダメと繰り返し、一向に服を渡さぬ副将。
普段は弱々しいくせに今回はやたらと強情な彼女に焦れたか…
ヘルがずい、と下着いっちょのまま一歩歩み出る。
そして、舞闘姫を死守する副将に手を伸ばす…!
「アシュラ!いいから!」
「駄目って言ってるでしょー!」
だがしかしアシュラ男爵もさるもの、あくまで主君が「他所様にはお見せできないあられもない姿」になるのを防ぐべく、
そして舞闘姫・桃の貞操を守るべく、舞闘姫を抱きしめ決死の形相で身を硬くする。
自然、二人の間で起こる激しい揉みあい(そして言い合い)
「いいではないか!美しいものを身に着けようとして何が悪い!」
「五月蝿いです!へんたい、ヘンタイ、変態ヘル様の馬鹿!」
「な、何ぃ?!へ、変態とは聞き捨てならぬ!俺は美しい物が好きなだけだ!」
「とにかくこれは駄目ぇ!いろんな意味で駄目なんですぅ!」
「何を!俺の言うことが聞けんのか!」
「駄目です!駄目…」そして、その激しい揉みあいの果てに―
うっかり、手だか腕だかに引っかかったのか、
何かに引きずられたヘルの下穿きが乱闘の勢いのまま引っ張られて…
「…!」
「…あっ。」
偶然にも。
男子にとって最も秘蔵さるべき部分が、開帳されてしまったりした。
もちろん、相対する少女も、至近距離からそれを見てしまったわけで。
「い…」
純情たる乙女・アシュラ男爵の両目に、一挙に涙が溢れ出す。
「いやあああああああ!もう、もう、お嫁にいけないいいいいいいい!」
「ば、ば、馬鹿者め!むしろ見られた俺の方が婿にいけんわ!」真っ赤な顔で泣き喚くアシュラ、さすがに動転して自身も顔を赤くするドクター・ヘル。
衝撃にびゃあびゃあ泣き叫びながら、少女はぎらっ、と怒り顔で主君を睨み付ける…
「いやああもおおおお!こ、こ、こ、これというのも!馬鹿なこと考えるヘル様が悪いんですううう!」
「なっ、ぶ、無礼な!ああもう早くその舞闘姫・桃を寄越せとゆーに!」
「いやああああああもうぷらぷらさせたまま近寄ってこないでええええ!」
「ぷらぷらゆーなああぁぁあぁあ!」
近所迷惑極まりない言い争いは、こうして続いていったのだった。