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五千円以内で幸せになる方法


9、時計、時を刻むモノ

私の枕もとには、いつも目覚し時計。
ちょっとおおぶりでだ円の形をした、
ごく普通の目覚し時計が置いてある。
時計というものは、いつのまにか身の回りに
たくさん増えてきてしまうものだが、
私にとって「時計」というと、
やはりいつでもその目覚し時計が思い出されるのである。

目に見えないが、確実に流れいく「時」をはかるために作られた時計。
もともと祈りの時間を知らせるために作られた初期の時計は、
分や秒など細かい区分を知らせることはできなかったそうだ。
しかし時間単位とはいえ、
今まで「朝」「昼」「夜」という区分で分けられていた一日を
より細かく区切ることができたというのは、大きな変化であろう。
それはすなわち、仕事や約束の期限が、
よく厳しく、より詳しく指定されることを意味する。
それが分刻みになり、秒刻みになり―
ついにはだれもが時計なしでは生きてゆけないほど、
一日は細かく刻まれてしまった。
しかし、私はあえてそのことをここでは責めない。
「現代人は時計に追われて哀れだ」
「時間の奴隷が自らを自らで拘束する足かせだ」などとはいわない。
そんなことを言っても無意味である。
第一それは行動にかかわる信念の問題で、
時計は何にも悪かないだろうに。
それよりも、私が時計を興味深いと思うのは、
時計が発明された理由同様、
時間を体で感じ取ることができるという、
その一点にある。
冒頭で出てきた、だ円形の目覚し時計を
私が何故気に入っているかという
その理由もここから派生する。
その目覚し時計は、私にとって
一番心地よく時間の流れを感じ取ることができるツールなのだ。

どのように?それではそのことについて詳しく書こう。
私はたまに、それをつかって虚空に遊ぶ。
とまらない時を感じ、
そのなかに自分自身が溶解していくかのような強烈な浮遊感を一時楽しむために。
まず、時計を耳にそっと押し当てる。
そうすると、秒針がクオーツによって休みなく動く、
あの機械的な音が
(時計奴隷を非難する人々が言うところの、「冷酷な音」)
耳道で反響するのがわかる。
その音を、私はただ聞いている。
時が、確かに動いていることを確認しながら。
やがて、周りの音が、少しづつ小さくなり、聞こえなくなる。
それと同時に、秒針の刻む音が私の身体の中で共鳴し、
どんどん大きくなる―
かちっ、ちゃっ、かちっ、ちゃっ、と。
刻まれる時の流れと、心臓が生み出す可変のリズムが聞こえる。
時には同時に響き、
時には不協和音を奏でながら、
お互い止まることなく、それぞれの時間を刻み込んでいく―。
そのとき、私の意識は完全に虚空に浮遊しているのだ。
時計と心臓、
二つのメカニズムが織り成す終わらないリズムのなかに、
すっぽりと落ち込んだまま。
その浮遊感を楽しみながら、私は何も考えないでいる。
今、確かに、生きて、ここに存在している。
永遠に繰り返す単調なリズムのなかに。
独自のリズムを生み出す私の心臓が、
その動きを止めるまでは―。
時の奈落に落ち込む快楽をむさぼっていると、
時間があっという間にたってしまう。
普段時間についてウルサイだけに、これは自分でもちょっと驚きだ。
はっと気づくと、平気で三十分くらいたってしまう。
何故そんな無駄に見えることをするのか?
さあ、それが私にもよくわからない。
ただ、一ついえるのは、
時計が生み出すあの「時の流れ」を感じさせてくれる音が、
とても私を安らかにさせるということだ。
だから私はよく、心が混乱した時、つらい時、
その目覚し時計をそっと耳に当てて。
そこから生み出される音、
時の流れる音を聞いてみる。
知りたくて、聞いてみる。
私は今存在しているのだと。
私は今確かに生きているのだと。
私はこの時の中で、生きていけるのだと。