0. まえがき

本論文の主要目的は、独和辞典の辞書記述とドイツの辞書記述を比較、その大きな差異を生んでいる要因の一つ、ヴァレンツ理論を取り上げ、ドイツ語学習に有用であると思われる本理論を分析、独和辞典にいかに活用していくかを考察する事である。

 

1. 各辞書における記述の差異と特徴

1.1 はじめに

 ほとんどのドイツ語学習者がその学習の際に使用するであろうアイテム、それは「辞書(独和辞典)」である。当然その独和辞典は、ドイツ語学習にとって…日本語とは構造のまったく違う言語であるドイツ語を学習する上で効率的かつ有用なものであらねばならない。では、どのような独和辞典がドイツ語学習者にとって有用であるのか?それを問う前に、まずは様々な辞書の比較を行ってみたいと思う。日本で出版された独和辞典、そしてドイツ語で書かれた辞典を取り混ぜてその記述を比べ、その差異を考えてみよう。

 例えば、日本語にはない概念の一つ…前置詞の一つ、anを取り上げてみよう。この前置詞は支配する格が3格、4格と二種類ある前置詞の一つであり、その違いによって第一義である空間的位置関係を示す意味が「位置関係」「動作の方向」の二種類に分かれる。またそのほかに「地点」「時点」「所属(英語で言うofの意味に近い)」、また形容詞・副詞の最上級表現にも使用されるなど、多様な使用法を持っている。ドイツ語辞書は、どのようにそれらの意味を定義として扱っているのだろうか?最初に、ドイツ語辞書がどのように前置詞anの意味をカテゴリ分けしているかを分析してみる。

 

1.2 各辞書による前置詞anの記述と共通点

 使用した辞書は『小学館独和大辞典2000: 97-100)『クラウン独和辞典』(1998: 46-48)Duden Deutsches Universalwörterbuch(1989: 101)Wörterbuch Deutsch als Fremdsprache(2000: 27-28)Langenscheidts Großwörterbuch Deutsch als Fremdsprache(1998: 39)Basiswörterbuch(2000: 10)6つである。これらの詳細な記述は巻末に資料として添付する。

 これらの辞書での記述を見てみても、それぞれの辞書が前置詞anをまったく違う基準で意味カテゴリわけしているのがわかる。次にあげるのは、「『小学館独和大辞典』の各意味カテゴリと同様のものが他のドイツ語辞書のなかに存在しているか」を調べたクロスチェック表である。

 

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『クラウン独和辞典』を他にすれば…つまり、ドイツで発行された辞書には「×」の項目…「当該辞書には、『小学館独和大辞典』であげられているような意味の記載がなかった」という部分がずいぶん多いのに気が付く。それはすなわち前置詞anの意味カテゴリとしてその分け方を採用していない、ということである。だが、6つの辞書の共通点として次のようなことがあげられるだろう。

 

  (2) 第一義としてan本来の意味「接触(・近接)」をあげている

  (3)「時点」の意味をあげている

  (4)「地点」の意味をあげている

 

 空間的位置関係を示す意味「接触(・近接)」、時を示す際に使われる「時点」、場所を示す「地点」の意味は6つの辞書どれにも独立した意味カテゴリとして分けて書かれている。そこから、各辞書の編纂者にとって、この3つの意味カテゴリは前置詞anの意味として欠くべからざるものであると考えられていた事がわかる。だが、その他の意味カテゴリの分け方は辞書によってまちまちである。

 

1.3 各辞書独自の特徴

次にそれぞれの辞書の特徴的な点をあげていこう。

 『小学館独和大辞典』は、意味カテゴリ分けが18個とドイツの辞書に比べても多いが、『クラウン独和辞典』よりは多くはない。「地点」をあらわす意味カテゴリでも、「場所」「宛て先」で小項目に分けるなど、ニュアンスの違った訳し方が出来るものは分けてカテゴライズしている。

 『クラウン独和辞典』であるが、6つの辞書中最も項目わけが多い。また、6つの辞書で唯一「接触」と「近接」を分けてカテゴライズしている辞書である。これは、実際にドイツ語文を訳す際に、前置詞an部分の訳が「〜に」「〜のきわに」というように変わるので、その点を考慮したものと思われる。

 上記二つの辞書は日本語ネイティブ学習者向けの辞書であるため、独文訳に便利なように作られていると考えられる。すなわち、様々なanの出現例をあげ、それらのanが持つ微妙なニュアンスを全て列挙したという印象を受ける。ドイツ語の初学者が辞書を引き、その前置詞に当てる訳を探す際には、このように様々な状況において微妙な違いを持たせた訳語を与えたほうが、彼らにとってその作業が容易となるからである。この点については後ほど述べる事にする。ここでは「しかし、それは典型的な逐語訳的考えに他ならない」という点を指摘しておくのみにとどめておこう。

 それに対し、ドイツで発行された辞書は総じて意味カテゴリ分けの数が少なくなっている。

Duden Deutsches Universalwörterbuchは「空間的」という前置詞anの位置関係を示すカテゴリと「時点」を示すカテゴリのほかに、『小学館独和大辞典』ではC、H、L、N、O、Pにわけてカテゴライズされている意味が「空間・時間に依存しないあるものや属性の関係を示す」という一つのカテゴリとしてまとめられている点が興味深い。すなわち、このカテゴリでは「前置詞anの意味が『空間的(接触)』でも『時間的(時点)』でもない」ということであり、anの具体的意味が薄れている例、と見ていることがわかる。この点については1.4で後ほど述べる。

 Langenscheidts Großwörterbuch Deutsch als FremdspracheWörterbuch Deutsch als Fremdspracheであるが、この二つの辞書ではまず前置詞anの後ろにくるものが「与格か対格か」で分けている。実際前置詞anが使用されるに当たっては後続要素はこの両者に分かれるので、そこから辞書を引き意味を判断するという点で、面白い方法である。また、この両者は「9.11.) (与格と<11.対格と>)ある特定の動詞、名詞、形容詞と補語をつなげるためにつかわれるLangenscheidts Großwörterbuch Deutsch als Fremdsprach」「5. 動詞などとの強い結びつきでWörterbuch Deutsch als Fremdsprache」と、そろって「他の成分との結びつきで使用される」という意味カテゴリをあげている。これは前置詞anそれ自体の意味を深く問うものではなく、むしろ他成分との結合のため使用されたというニュアンスが付与されている。この記述と、その下敷きになっている「ヴァレンツ理論」についても、後ほど1.4で詳しく述べよう。

 Wörterbuch Deutsch als Fremdspracheは、前置詞anと共に使用されている語の概念との結びつきでカテゴライズが為されている。"Deutsch als Fremdsprache"というその名のとおり、外国語母語話者に対して作成された辞書であるが、ここで分析しているドイツで出版された4つの辞書のなかでは唯一前置詞anの意味カテゴリとして「最上級」をあげている辞書である[1]

 Basiswörterbuchは、6つの辞書中最も意味カテゴリ分けが少ない辞書であるが、その定義の仕方も他の5つとはまったく違う。「(wo/wohin?)の答えとして、それがどこにあるかを示す」というように、質問に対して答えられるものを定義としている。これは他の辞書とはまったく違ったアプローチであり、興味深い一例といえよう。

 

1.4 ドイツ辞書におけるヴァレンツ理論

 Duden Deutsches UniversalwörterbuchLangenscheidts Großwörterbuch Deutsch als FremdspracheWörterbuch Deutsch als Fremdsprache3つの辞書は共通してヴァレンツによって使用されるan」という考えを取り入れている。ヴァレンツ(Valenz)とは、結合化理論における基本概念である。文中のある語、特に動詞がその周囲に補足成分によって埋められるべきスペース、空位を作り出す力をさす。これら3つの辞書ではある動詞、形容詞、名詞によって要求される補足成分として出てくる前置詞のanを、一つの意味カテゴリとしている。この場合、前置詞an自体には具体的な意味がほとんど付与されない。

 例として、『クラウン独和辞典』とWörterbuch Deutsch als Fremdspracheに共通して出てくる次の用例がそれぞれどのカテゴリに入れられているかを比べてみよう。

 

 5an 3 zweifeln

 6an einer Versammlung teilnehmen

 7sich an 4 erinnern

 

8)『クラウン独和辞典』の場合

 (5)→17.(復讐・批判・反抗などの対象を示して)〜に対して

 (6)→13.(関与、関心の対象を示して)〜に対して

 7)→6. a) (理念、信仰などの対象)〜を

 

9)Wörterbuch Deutsch als Fremdspracheの場合

  5)(6)(7)→5. 動詞などとの強い結びつきで

 

 このように、『クラウン独和辞典』では3つのカテゴリに分かれるが、これらの前置詞an全てを「動詞が持つヴァレンツによって補足成分とされた前置詞格目的語としてのan」と見るWörterbuch Deutsch als Fremdspracheでは、一つのカテゴリにまとめている事がわかる。

 このような前置詞の捕らえ方は、Duden-Grammatik der deutschen Gegenwartssprache(1998: 310)のなかにも見られる。

 

10(...) Ein Teil der Präpositionen ist von der Valenz der Verben, Substantive und Adjektive bestimmt; die Präpositionen selbst haben keine Bedeutung mehr, sondern sind nur noch syntaktisches Steuerungsmittel: (...)

 

 以上の辞書分析の結果で最も興味深い点は、Duden Deutsches Universalwörterbuchなどに見られたヴァレンツによって使用されるan」という考えであろう。このヴァレンツという考えはドイツ言語学分野において盛んに議論された。次章ではこのヴァレンツ理論について解説を加えたい。

 



[1] 日本で出版された『小学館独和大辞典』『クラウン独和辞典』は両者ともこの意味カテゴリをあげている)。これは日本で出版された辞書同様、学習者が「最上級」表現を使用する上で理解しやすいようにとの考えからであろう。

*書いたのは「ゆどうふ(Yudouhu 2003.)」です。 Die Verfassarin ist Yudouhu(Natürlich ist das nicht mein wirkliches Name).
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