2095   Re^3:外国語で話すときって外国語で考えるんですか?
2006/08/05 16:04:20  ijustat   (参照数 57)

pdca様、お元気でしょうか。

外国語で話すとき、私たちは外国語で考えているのかという疑問について、その後もずっと考え続けていました。で、私の考えとしては、たぶん外国語で考えているのだろうというところに、今のところ落ち着いています。

なぜなら、こうです。

私たちが思考を刺激されるとき、おそらく何らかのイメージが意識に浮かび上がるのだと思います。その刺激は、言語化されていない、視覚的・聴覚的・触覚的・味覚的・嗅覚的なものであったり、五感では説明できない心のときめきであったり、日本語であったり、別の外国語であったり、その外国語であったりして、まちまちです。

しかし、それを言語として表現するとき、そこから得られた思想なりイメージなりを、その外国語で言い表すために、適切な語彙や表現、文型を探すのだと思います。そして、適切と思われる表現が見つかったとき、それを適当な文型に流し込み、言葉にするのだと思います。意識に浮かぶのがその外国語のときは、とても楽です。そこに現れた語句や文型をそのまま使って言葉を少しアレンジして表現すればいいからです。

ですから、水面下では、雑多なものが混ざっているけれど、言語化されるときは、いちおうその言語で考えているのではないかというのが私の考えです。

また、外国語を日本語に訳すときにも同じことが考えられます。この場合、水面下に流れるのは外国語の文章です。それを読むとき、もちろん私たちの語学力不足から、さまざまな誤解をしているでしょうが、いちおうはその外国語の流れに従って読んでいると思います。

しかし、いざ日本語に訳そうとするとき、その文章から読み取れたものがなかなか日本語にならず、骨を折ることがよくあると思います。やはり、一生懸命日本語で考えているのだと思います。

これは、自分の五感で感じたことや、心に感じる胸騒ぎなどを日本語で表現するときも同じだと思います。なかなか適切な言い方が見つからなくて、いちおう口に出して言うことは言ったけれども、自分が感じたものは、決してその表現では言い表せていないと感じることがよくあります。これも、やはり日本語で一生懸命考えているのだと思います。

これらはみな、その水面下には、外国語があったり、言語でない感覚があったりしますが、やはり考えているときには、日本語で表現しようと努力しているわけです。

これを外国語で見てみれば、水面下には日本語があったり、言語でない感覚があったり、他の外国語があったりしても、やはりその外国語で表現しようとして、その外国語で考えているのだと思います。

ただ、こういうこともいえるでしょう。

それは、絶えず文法訳読式で勉強してきた人は、外国語を聞くたびに日本語に置き換えないと安心できないので、外国語で表現するときにもまず日本語で文を組み立ててしまう。それからその文を外国語に逐語訳する。

でも、これは大変複雑なプロセスで、時間とエネルギーが倍以上かかり、なおかつ間違いや不適切な表現が多発してしまいます。このような段階は、早く卒業してしまいたいものです。

実際、私はそういう人を知っています。彼は以前、私と話すとき、会話の中に韓国語が出てくると、いちいちそれを日本語に訳して納得していました。その当時、韓国人のある韓国語教師は、彼の韓国語は概念把握が正確にできていないと指摘していました。

そこで私は彼に、決して日本語に訳さないで、韓国語は韓国の国語辞典を使って理解するように勧めました。彼はそれを受け入れて、日本語を解さないで韓国語を理解する努力を始めましたが、現在では非常に正確な韓国語を使用していて、もしかしたら私よりずっと上手かもしれません。

私の考えでは、彼は日本語で考えて韓国語の単語をその上に被せるだけの思考から、韓国語で考えて韓国語を使用する思考へと移行したのだと思います。