2058   リハーサルと自動化と予測文法(外国語で考えるために)
2005/01/31 13:24:48  ijustat   (参照数 134)
これは 2050 [Re^3:外国語で話す時] への返信です

pdca様

外国語で考えるという刺激的な(?)テーマについて、思っていることをお返事で書きたいと思いながら、なんだかんだ忙しくて返事もできずにいます。以下は返事ではありませんが、『外国語学習に成功する人、しない人』(白井恭弘著、岩波科学ライブラリー)に書いてあったことをなぞって、顔をつないでおきたいと思います。

南カリフォルニア大学のスティーブン・クラシェンという人は、「言語習得は、母語も外国語も言語内容を理解することによってのみおこる」という「インプット仮説」を主張しています。

その根拠の一つは、なかなか話し始めないが、話し始めたら完全な正しい文を話した、という子供がけっこういるということです。このようなケースは、言語習得そのものは、話す練習をしなくても起こる、という証拠になるでしょう。

もう一つの根拠は、「聴解優先」の外国語教授法が驚くべき効果をあげている、ということです。

「全身反応教授法」という教え方があって、これは、先生が当該国語で命令を出して、学生が言われたとおりに行動するという教授法です。この教授法では、聞く、読む能力はオーディオリンガル教授法の3倍のスピードで習得され、話す力、各地からも劣らない、という結果が出ています。

また、アメリカ国防省言語研究所では、12週間のうち、最初の4週間はディクテーションなどの練習に費やして話させず、学期の後半だけ話すことの訓練をしたら、最初から話すことと聞くことの両方の訓練を受けたグループよりも、総合力で上回り、また話す能力も勝っていました。

また、「イマージョン教育」とよばれる、大多数の教科を第二言語で教える教授法や、「自主的読書教育」という、毎日30分読書の時間を与えて、子供が勝手に自分の好きな本を選んでそのテープを聞きながら本を読むという教授法でも、話す能力において少しも劣らないという結果が出ました。

ところが、このインプット仮説では説明できない現象があります。一つは「テレビからは言語習得ができない」という現象です。親が聴覚障害者で言葉が話せなかったため、テレビを見て育った子供がいたのですが、その言語能力は、テレビを理解する能力はあっても、話させると文法的にはかなり不自然だったといいます。

また、「受容的バイリンガル」のケースもインプット仮説への反証になります。聴いて理解することはできるが話すことができないバイリンガルのことで、移民の二世、三世にはよくあります。

このような例は、インプットだけでは言語習得はできず、アウトプットも必要だという可能性を示唆します。

では、突然話し始める子供は、それまで何をしているのでしょうか。おそらく、頭の中で、話すことを考えていると思われます。様々な理由で口には出さず、頭の中で文を組み立てる練習をしているのでしょう。そうでなければ、突然完全な文を話すことはできないはずです。この頭の中での「リハーサル」が、この問題を解く鍵です。

テレビを見て育った子供のケースと受容的バイリンガルのケースは、どちらも、このリハーサルをする必要がなかったのでしょう。彼らの置かれた状況では、インプットを理解する必要はあっても、話す必要がない。だから、聞いてわかるための能力は身についたのですが、発話の練習を頭の中でしなかったのでしょう。

このリハーサルが、「英語で考える」の一形態だといえます。このようなリハーサルの効果は絶大だと思われます。まず、口に出すか出さないかの違いだけで、頭の中で英語を話しているので、英語を話している時間が二倍、三倍に増えるようなものです。さらに、頭の中で文を組み立てるレベルまでもっていかなければならないので、インプットを聞くときの集中度も高まり、言語処理のレベルも高まります。実際に英語を話す時間はなくとも、英語でアウトプットする必要性があるだけで、リハーサルの効果により、言語習得のスピードが上がると考えられます。(以上 p.63-71)

また、インプット仮説と対立するモデルに、「自動化モデル」というものがあります。インプット仮説は、「習得はメッセージを理解することによってのみおこり、意識的に学習された知識は発話の正しさをチェックするのに使えるだけである」というものである一方、「自動化モデル」は「スキルは、最初は意識的に学習され、何度も行動を繰り返すうちに自動化し、注意を払わなくても無意識的にできるようになる」というものです。

ふたつの立場はどちらもある意味では極端で、その後、多くの研究者はこの中間的な立場を取るようになりました。まず、意識的に学習された知識が発話には繋がらない、という立場は強すぎる、という理解が一般的です。また、意識的な学習によって、自然に聞いているだけでは気づかない言語項目に注意が行き、聞き取りができるようになり、それがまた自然な習得を促進する、という効果も考えられます。さらに、聞いているだけでは、正確さがどうしても身につかない、という問題もあります。意識的・明示的な知識を利用して、それを自動化させる必要があるのかもしれません。

一方、言語の知識というのは、意識的には習得できないものも多数含まれています。実際、かなりの文法知識は、一般の人には意識的には説明不可能なもので、言語学者でさえも、きちんと説明できないものが多数あります。それを、すべて意識的に理解し、さらにそれを自動化していくというのは事実上不可能です。ですから、インプットだけで習得される部分が多い、というのは否定できない事実です。(以上、p.78-80)

ところで、なぜ意味を理解することが言語習得に繋がるのかというと、その言語の「予測文法」というものが身につくからです。たとえば、英語がある程度できるようになると、He gave me... と聞いたら、次に何がくるかは、無意識のうちに瞬時に予測できるようになります。He gave me という情報をもとに、次にくるのは名詞で、たぶんプレゼントだろうとか、可能性の高いものを無意識のうちに予測します。(このような能力は日本語に訳していては身につきません。)

会話をするときには、意味と形の関連付けを、かなりのスピードですることが必要となります。そのためには、このような無意識に使える予測文法が不可欠です。いちいち日本語に訳している時間はありません。(以上、p.97-98)

だから、言語習得は、かなりの部分がメッセージを理解することによって起こるけれども、リハーサルを行う習慣を身につけ、また意識的な学習を行うことで、より深く正確にその言語を生成する能力が身につくと思います。それが予測文法を高め、その外国語で考え、その外国語で反応する能力を向上させる、というのが、『外国語学習に成功する人、しない人』から読み取れそうな内容です。

pdcaさんの疑問は、精神の根底において外国語で考えているかというものですが、それはわからないので、なるべく母語である日本語に妨げられずに正確な外国語を生成することについて、考えてみたいと思っています。