ゆどうふ様、みなさま、こんにちは。
>今までの皆さんの書き込みを見ていて、 >大学時代に教わった「サピア・ウォーフ仮説」を思い出してしまいました >参考URL:http://club.www.infoseek.co.jp/bbs/ > >果たして、 >思考があるから言語が規定される >のか、 >それとも >言語はあくまで思考を表出するのみ >なのか…?
「サピア・ウォーフ仮説」を読ませていただいて思い出したのはソシュール。 部屋の中にある台は、その前に机を置けば「椅子」という名前が与えられ、椅子の意味を持ち、床に座ればそれに「机」という名前が与えられ机の意味を持つという、名前が与えられた意味が決まるという話でしたっけ。(不真面目学生だったので) 日本人は虹は七色と言っているのは七つの色の名前を定義しているからで、ヨーロッパでは6色、エスキモーは2色(明るい色と暗い色)。美大の生徒は無数の色でしょうか。 ヨーロッパ語で会話している時は虹は6色に見えるか、エスキモー語(できませんが)で会話している時は虹は2色に見えるかというと、やはり7色に見えてしまう気がします。 そのイメージをエスキモー語で話す時に二色に変換されるのではないかと。 今読んでいる「たった3ヵ月で英語の達人」(詳伝社黄金文庫)に次のような記述がありました。ちょっと長いですが
「自分では、たとえ英語で話しているときであっても、日本語で考えていると思う。しかし、英語を話すときには、いちいち日本文を作成してから訳すのではなく、言いたいことを言語以前の段階のもやもやしたもの(概念というのかな)から直接英単語に乗せて出すことができる。 ペラペラ話しているときの自分の脳ミソの働きを自己分析すると、言いたい内容や概念に合致する「英語」や「スペイン語」をすばやく検索する機構ができあがっていて、必要に応じた言葉にのせて概念を吐露することができる。私にとっての外国語知識とは、トコロテンを押し出すカタのようなものである。」
「日本語で考えている」という部分以外は、私は非常に納得できる記述です。 かく言う私にも虹が常に7色に見えるなら日本語で考えているのではないかという突っ込みが来るかもしれません。 ただ、それは最初に脳をフォーマットした時に、日本語でフォーマットしたということではないかなぁと思います。
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