2033   Re^4:『なんのための日本語』
2004/12/22 20:50:15  ijustat   (参照数 100)

ゆどうふさんこにちわ!ijustatです。

>なるほど、中央集権的なんですね
>地方が違えばお互いの言葉が理解できなくなる、というレベルではなのせうか
>そうではなくて、方言地位がメチャクチャ違う、ということでせうか
>なかなかぴんと実感が来ないのですが…
>私は一応関西弁ユーザーなのですが、やはりある程度の勢力があるせいでせう

韓国の方言は、チェジュ島を除けば、それほど大きな違いはありません(それでも聞き取れないことが多いですけど^^;)。知らない単語が出てきたらお手上げですけれども、日本語の各地の方言の違いとそれほど大差はないように思えます。

それよりも、ゆどうふさんが2番目に指摘してくださった、「方言地位がメチャクチャ違う」というのに近いと思います。実際には、方言の地位が低いのは日本語と同じですが、日本語の場合は、地位の高い方言があります。関西方言がそれです。しかし、韓国語には、そのようなものはありません。ソウル方言は、単独で絶対的な位置を誇示しています。

よく韓国では、プサンの方言と大阪の方言を対照させて考えています。しかし、それは間違いです。プサンは大きな商業都市ですが、その文化に大阪や京都ほどの位相はありません。プサン方言を第2標準語にしようという意見も、まあたぶん出てこないと思います。プサンは地方の都市でしかないのです。

>その感覚でいくと、「Konglishなんてぇ」というカンジのコンプレックスが生まれるんでせうか
>確かこうでしたよね、「韓国語なまりの英語」って…
>""Englishes""の時代なんだからいいじゃん、とか思うんですが。

まさにゆどうふさんの指摘されるとおりです。だから、発音の訓練をあまり受けなかった日本人の英語を聞いて、韓国の人たちは優越感を感じることが多いようです。時には、ご丁寧に発音を直してくれることも、よくあります。

私は高校のとき使っていたテープ教材が、今考えてみればイギリス英語で、“that”の“a”の部分は“エ”よりも“ア”に近い発音でした。それで、私の発音も、それに近い発音をしていました。何かで英語の単語の話が出たとき、私が“that”を発音すると、そうではなくて“thet”と発音しなければならないと言われました。それで私が“thet”(実際には“debt”)と発音すると、発音がいいとほめられました。

これは、あとになって分ったのですが、アメリカ英語の発音の変形で、もちろん正しい発音ではないのですが、韓国ではアメリカ英語こそ英語であるという考えがあって、そのために、アメリカ英語の発音に近い韓国式の音で、私に発音させたわけです。

余談ですが、そのあと、私は韓国式英語音にはまって、英語のスペルを見ただけで正確に韓国式の発音で言え、それをハングルで書けるまでになりました。それが私の韓国語の語彙を飛躍的に増やしてくれました。韓国語を勉強している人にはぜひ薦めたい方法です。

>それは、ひょっとしてヴァレンツの考えなんですかね。
>動詞(述語)が文の中心になり、絶対に必要な語を連れてくる、という…
>それでいくと、主語が何で必要なのか、って言うとか、
>giveはなんで二つ目的語取るのにcallはできないかってのが説明できるんですよね
>とはいえ、私は現実にはあの「五文型」で教えています
>伝統の強さか…私が不勉強なせいもあると思うんですけど
>違ったらゴメンナサイ、でもなんかそれを思い出しました
>懐かしい、大学時代の卒業論文(笑)

ヴァレンツ(私は“ヴァレンシー”と習いました^^)の考え方の影響はあると思います。ただし、ヴァレンツは、私の記憶では、動詞が語彙的に持っている結合価のことですが、補語の問題は、それらを文の構造の方から迫っているもので、考え方の方向が逆のような気がします。しかし、その文の構造というのは、やはり動詞の語彙的意味が支えになっています。ナム・ギシム先生の本では、「結合価」という単語は使っていませんでしたが、“述語動詞の意味が名詞の項を決定する”というようなことが書いてあります。任意補語に関する部分に、その説明があったような気がします。これは、結合価を踏まえての説明でしょう。

5文型に関しては、けっこう批判もありますね。一般の統語論では、5文型というものは、批判的というより、完全に無視しているようです。見たこともありませんから。でも、最近読んだ本では、5文型は「文」の型ではなく、動詞句の型、ひいては、その中の中心となる動詞の型の区別に過ぎないと批判していました(『言語学の方法』郡司隆男・坂本勉著、p.43)。

ただ、話によると、統語論が脚光を浴びるようになったのは、生成文法が台頭し始めてきた50年代以降だということです。それまでは、構造主義言語学が隆盛で、そこでは言語の心理的な側面を扱うのはタブーとされ、音韻論や形態論ばかりが扱われて、統語論はほとんど問題にされなかったという話です。5文型というのは、そのように英語の統語構造がまだよくわかっていなかったころ(たぶん)、外国人に英語を教えるために整理したものではないかと思います。

そういう風に考えれば、本当によく整理されていると思います。述語動詞を軸にして、その要求する名詞句の類型を、たった5つにまとめ、それですべての文を説き明かしてしまうというのだから、やはりすごいことだと思います。もし英語の文型は50も100もあると言われたら、英語の勉強はもっと苦痛になっていたことと思います。案外、統語論が高度に洗練されてきた今でも5文型が使われているのは、もしかしたら、この“5”という数字の魔力によるものかもしれません。

けれども、重要なのは、全体像を一望できることよりは、一つ一つのパターンが明快に理解できることだと考えたとき、ゆどうふさんのおっしゃるとおり、ヴァレンツの考え方はとても重要になると思います。たぶんですけど、英熟語と呼ばれるものの多くは、それによって解決が付く部分もあるのではないかと思います。

述語とそれが取る名詞句との関係は、アメリカ発の生成文法や、旧ソビエト発の連語論、物理学からヒントを得たというヴァレンツの理論などによって、それぞれ違った切り口から研究されているようです。最近は、コンピュータによる言語処理が行われるようになってきて、連語論に関心を持つ人が多くなってきたようです。ただし、連語自体の考え方は、論争中のようで、韓国では、互いに意味の変化を要求する“連語”と、互いの意味を保存する“自由結合”というものを分け、日本ではどちらも“連語”とするなど、その意味も定まっていません。また、分けるとは言っても、どこで分けるのかは不明な点が多く、難しい分野です。

というわけで、何だかわけの分らない話になってしまいました。(汗)