2014   Re^3:漢字の勉強
2004/09/06 0:33:12  ijustat   (参照数 131)
これは 2012 [Re^2:漢字の勉強] への返信です

氷雨さん、お返事くださりありがとうございます。

>自分でも他の人に比べて漢字を多く知っていると言えますけど
>韓国人の平均実力が僕くらいに至らなくてはならないとおもいます。
>これは悲しいことです。

韓国の人たちが氷雨さんくらい漢字を知っていたら、昔の出版物を読むのも問題ないでしょうね。古い本を見ると、漢字が多かったし、開化期(日本の明治時代ごろ)の文章は、漢字の間にハングルで助詞を付けているようなものだから、今のたいていの人たちの漢字力では、とうてい歯が立たないと思います。

私が韓国語を始めたころ、韓国のけっこう年配の人たちは、我々が日本に漢字を伝えたんだと誇らしげに言っていました(それを聞くのはあまり気分のいいものではありませんでした。その人の問題とは何の関係もないけれど、ほとんど事実らしく否定できないからです^^;)。しかし最近は、それをいう人があまりいないようです。それは多分、日本人に比べて漢字力が劣ってしまったので、もしそんなことを言ったら、じゃあ何でそんなに漢字ができないんだと問い返されてしまうのが怖いからではないかと思います。

そういう意味で、氷雨さんが今の韓国の現実を「悲しい」と言われることに同意します。

>僕がそんなに漢字にうまくなれたのは
>ただ漢字を書くのが面白くてでした。韓国語で”ペングルシ”
>日本語で言うと”ペン書き”でしょうか
>
>とにかく、中学のころからペン書きがすっごく面白くて
>見知らぬ漢字が出たら”をを、これ新しい形の漢字だ! 書き写してみよう”
>とすぐに反応がでてしまうのです。
>そうしたらその音と意味が知りたくなるのは突然なものですから
>というと、漢字を”勉強してた”より”楽しんでた”といったらいいでしょうね

なるほど、そうだったんですか。漢字の持つ美しさに魅了されたわけですね。そんな人が工学を専攻するというのもまた、不思議なことです。

>>あ、そうそう、韓国にはまだ“書堂(ソダン:寺子屋のような塾)”が廃れずに残っていて、そこで子どもが、漢文や礼節を学ぶことができると聞きました。日本では寺子屋などでの“素読”(=解釈よりも声に出して読むことに重点を置いた、“習うより慣れよ”型の勉強方法)の習慣が廃れて久しく、昔ながらの“素読”を復活させようとしている人はいるものの、どのくらい正確に再現できているのかはわかりません。氷雨さんは、書堂で素読を習ったことは、ありますか。
>
>もちろん、あります。書堂と言うまでではないんですけど
>敬老堂(キョンノダン;日本語に当たるもんは何ですか?)の
>爺さんたちが無料奉仕の次元で街の子供たちに礼儀と漢字を教えてくださるのです。
>金払いの書堂も健在していると言われています。その数は少なくても。
>けどそれもどんどん消えていくみたいです。新村にも書堂かあったそうです。
>学校では中学から正規教科として”漢文”があります。

“敬老堂”というのは初めて聞いたような気がします。その内容については、今初めて知りました。何しろ日本にはこういうもの自体がなくなってしまったものだから、該当する日本語を探すのは容易ではないと思います。日本では、かなり年配の老人でも、そう簡単に漢文を教える実力はないと思います。今の私たちよりは多少はできるかもしれませんけど、昔の韓国の人たちほどではありません。

これは実は、日本は韓国ほど、言語知識において世代間の断絶が激しくないということを表していると思います。しかし、そういう漢字に強いご老人から漢字を習えたことは、本当に幸運でしたね。今度、その授業風景について話してもらえる機会が持てたらと思います。

そうそう、私も1学期だけ、漢籍を従来の方法で学ぶ授業に出たことがあります。ヨンセ大学のウイダン館には、漢文を学ぶソダン形式の教室が一室あります。教室に入ると、そこが玄関になっていて、靴を脱いで上がります。教室は、玄関からの高さが2尺ほどで、木の床になっています。床が高いので、靴を脱ぐところには、高さ1尺ほどで横幅2尺(だったかな?)ほどの石台があります。床も壁も天井も木で造られているので、木の香りが部屋に満ちています。

先生はハッリモン(翰林院)から招かれた人で、とても穏やかな老教授でした。先生も学生たちも、食膳のような小さな机を前にして座布団の上で胡坐をかき、先生はひたすら一人で白文を解釈していきます。時々敷衍説明もしますが、ほとんど漢文に助詞を振って読んでいくだけです。それを学生たちは聞きながら、テキストにメモをしていきます。

私は、予習してきた範囲をいつも大幅に超えてしまうので、ほとんどチンプンカンプンのことが多かったです。「詩経」は使用漢字が格段に多く(2万字と言われています)、知っている字も、意味が全然違うことが多いので、予習もままなりませんでした。それで、予習していないところはよく分らないし、秋場で寒い中から暖房が利いた部屋に入ってぬくぬくしてくるせいで、毎回授業の半ばはウトウトしていました。

進む速度はかなり速く、1学期で「詩経」の半分を読み終えてしまったと思います。毎回授業の最後には、その日読んだ詩経の本文を、銘々が勝手に節を付けて、一斉に朗詠します。これだけはすごく楽しかったです。授業のストレスが、これで一気に吹っ飛んでしまうようでした。

結果的に、「詩経」は魅力のある書物だという印象は残りましたが、予習が足りなかったために、漢文の実力も身に付かず、「詩経」の内容も身に付かずじまいでした。でも、最後の朗詠がとても楽しかったので、またあの授業を受けてみたいなあと思っています。