>氷雨さんと話をしながら、刺激を受けたことがあります。それは、「日本語修行」という言葉を使っていたことです。普通は「日本語の勉強」とか「日本語学習」と言うけれど、それ自体は“必要だから”とか“日本語が使えるようになるため”といったニュアンスを含んでいます。 > >しかし、「日本語修行」というと、様子はだいぶ違ってきます。日本語を“極める”ことが目的になるからです。それは、単に勉強といったときとは違って、“深みに達し”、“変幻自在に”日本語を駆使することが目的になります。上級を超えると、すでに教材らしい教材はないし、助言してくれる人もいなくなります。だから、この“修行”というのはとても大変なことなのです。しかし、究極の目標があるので、慢心することはないでしょう。それがこの「日本語修行」という言葉の魅力です。 > >そういえば、松本道弘先生は「英語道」を提唱しておられる。この人の英語道は、私が読んだ限りでは、“ディベート”と“同時通訳”を通して英語を極めることでした。私は通訳は今まで自分に合わないと言って避けて通ってきましたが、氷雨さんの“日本語修行”に刺激されて、自分も“韓国語修行”を始めようかという気になってきました。
> >英語なら“英語修行”、ギリシャ語なら“ギリシャ語修行”、ドイツ語なら“ドイツ語修行”、中国語なら“中国語修行”と、それぞれ自分の学習している言語を極める努力をしてみるのは、ことのほか楽しいことではないかと思います。 > >私の韓国語修行は、どのようにしようか。それは、これからの楽しみです。
ijustatさん。氷雨さん。みなさんお久しぶりです。 なるほど「日本語修行」ですか。。。 私は韓国語の影響で「学習」ではなく、「修行」という言葉を使われたのだと思っていました。この言葉に正しく触発されたのは韓国語をご存知の方だけだったかもしれませんね。不思議な感じがします。 養老猛司さんの「バカの壁」を思いました。私の側に「理解したくない」壁があったのかもしれません。 私も修行をしなくてはいけないのに、、、したくないんです。(苦笑) 最近、、なまけています。。。すみません。。。
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