1770   Re^4:TOEFLではなく、TOEICのことなんですが・・・
2004/02/28 14:12:03  ijustat   (参照数 22)

NOVIO様、こんにちは。せっかく木曜日で冬学期が終わり、休みに入ったというのに、風邪を引いて熱を出し、家で休んでいます。

>TOEFLって点が高ければいいってもんじゃないみたいっすよ。
>
>得点が高すぎるために大学院でなかなか受からないってこともあるんです。
>エッセイとTOEFLのバランスが大切なんですよね。
>例えば、
>
>1 TOEFLの点が高い + エッセイがすばらしい
>2 TOEFLの点が低い + エッセイがすばらしい
>3 TOEFLの点が高い + エッセイがいまいち
>4 TOEFLの点が低い + エッセイがいまいち
>
>この中で1と2は受かる可能性が高いですが、3と4は厳しいです。
>つまり英語力があるのにエッセイが書けないってことは
>英語力以外に問題があるとみられちゃうんですよね。

これは面白いことですね。日本では留学生を受け入れる基準として、日本語能力試験の1級に受かっていることが求められるそうですが、エッセイがあるかどうかは知りません。そういう意味で、アメリカの大学は、けっこう選抜試験で人を見るんですね。

梨花女子大学の日本語圏への交換留学生選抜試験では、筆記試験が日本語でエッセイを書くことで、私が試験の出題と採点をしたときは、日本語力もさることながら、その内容の善し悪しで点数を決めました。中にはバイタリティーがあるというか、日本へ行きたい、日本へ行かせて〜!、という内容で埋め尽くされている作文もあるんです。それでも一応点はあげますけど、そういうエッセイは読みたくないですよね。

エッセイがうまいということは、もちろん文章の訓練を受けているということもあるでしょうけれども、その文章の内容にしっかりした問題意識があるということだと思います。そして、論理的な思考ができて、その知識にも問題が少ない。やはりそういう人は、日本語に若干問題があっても、勉強する人間として、好感が持てますよね。

>もうひとつ・・よく似ていますが
>
>1 英語が流暢 + 専門知識と問題意識がある
>2 英語はカタコトでもしゃべる意欲がある + 専門知識と問題意識がある
>3 英語が流暢 + 専門知識も問題意識もない
>4 英語をしゃべる気がほとんどない
>
>この中で1がもちろん理想ですが、日本人ではなかなかいないですよね。
>わたしが増えてほしいと思っている層は2なんです。
>3と4の方は国際舞台ではちょっと・・って感じです(^^;)

なるほど、専門知識と問題意識というのは、それだけ大切なんですね。こういうことは、私は残念ながら、学校では全然教わりませんでした。韓国へ来て日本語を教えたり、他の国の人と会ったりしながら、長い間かけて徐々に感じるようになってきたことです。しかし、今回のこのNOVIOさんの書き込みのおかげで、ぼんやりしていたものが、かなりはっきりと整理できました。日本語を教えることとこのこととを、ぜひとも接木させたいと思います。

確かに、文化も信条も違う人と友人になれるのは、言葉がうまく通じるからではないようです。おっしゃるように、専門知識と問題意識があるからと言ってもいいかもしれません。

私の個人的なことですが、ギリシャ正教会の神父さんがプロテスタントの信徒である私に会ってくださる理由を今、考えてみました。まず、私とは信仰が違います。プロテスタントとギリシャ正教は同じ宗教ですが、その礼拝の形式はとても違うのです。また、私は英語が下手です。たどたどしい英語に、キリスト教用語と言語学の用語を混ぜて、何とか意思疎通を行っています。また神父さんは神学と修辞学の博士号を持つ知識人ですが、私は何も人に見せられるようなものは持っていません。また、せっかく神父さんは韓国宣教のために派遣されているのに、私は韓国宣教とは無関係な日本人です。

それにもかかわらず、神父さんがご好意で私にギリシャ語を教えてくださり、韓国語を教える機会も下さった理由を考えてみると、NOVIOさんの指摘された内容が関係あるような気がします。つまり、専門知識と問題意識で人間関係がつながっているのではないかと思ったのです。専門知識といっても、私には大したものはありませんが、それでも同じ“聖書”という土台に立って話をすることができます。最初は、ギリシャ正教会というのがどういうところか知らないので、多少は警戒しましたが、分かってくると、これがなかなかいい教会です。教会はいいところという点では、プロテスタントの教会と変わるところはありませんが、私が魅力を感じるのは、聖書の理解の深さです。それを知りたいという気持ちが、教派も文化も言語も違う人を会わせているのではないかと思います。“同じキリスト教じゃないか”と思われるかもしれませんが、それがなかなか簡単なことではないのです。

これは“国際舞台”とは言えませんが、国際社会の中の一こまではあるでしょう。そこでは、信条の違う人同士が争う場合もありますが、けっこうオープンにしている場合もよくあります。まあ、キリスト教自体がオープンであることを信条としているので、私のような体験をするようになるのかもしれませんけど。で、これは国際社会だけでなく、日本国内にいてもやはり大事なことだと思います。専門知識が問題意識によって熟成した品性を“教養”というなら、この教養は、どんな社会でも必要でしょう。(ああ、また熱が上がってきたようです。頭がぼんやりしてきました。(汗))

>例えばフランス語を勉強している方・・
>つぎの問いにフランス語ですらすら答えられますか?
>
>1 フランス語をなぜ勉強しているの?
>2 日本人とフランス人ってどこが違うと思う?
>3 日本人とフランス人ってどこが似てると思う?
>4 日本とフランスが協力していける分野があるとしたら何?
>
>もし答えられないとすれば、それは語学のせい?それとも・・

これが日本語で言えなければ、問題意識の欠如のせいでしょうね。これを自分が勉強している外国語に当てはめて日本語で言ってみたらいいかもしれません。でも、4番の質問はけっこう考えさせられます。いや、すぐには答えられないかもしれない。(汗)