1741   Re^16:新しい地平
2004/02/26 0:23:21  lapis225   (参照数 20)
これは 1738 [新しい地平] への返信です



>自分の書き込みにレスします。^^;
>
>>「日本語にはいままでとはまったく別の論理があり、これがどういう発展を示すか、というようなことについて、物理学者ハイゼンベルク氏のことばを紹介しておきましょう。藤井簡治氏の引用によりますが、次のようだそうです。――主観的認識と客観的認識の両者に等価を与え、その接触面を空間に拡大した私の(不確定性)理論は、主観を動かしがたい原点として確立されたヨーロッパ文明外、つまり動詞を受身として使うことを(新しく)学んだ新大陸アメリカや、さらに主語さえ省略されることの多い日本語圏で、新発展を見ることを期待する。……」(40ページ)
>>
>>この部分は、日本語も論理的な言語であることを証明する根拠のひとつとして引用されているものですが、私は別の観点で、つまり、外国語を学ぶことによって、別の思考回路、別のパラダイムを身につけることができるという観点で読みました。外国語の学習は、初めはその思考の流れにショックを覚え、何という理不尽と思いますが、慣れてくると、私たちの心の中に新しい地平が開けてきます。これは、ものを考えることを仕事としている人にとっては、とても大事なことだと思います。
>
>そういえば、ギリシャ語を習っていて、初めはこれが西洋語かと思った複雑多難なギリシャ語も、けっこう英語と同じ発想が多いことが徐々に分かってきました。昔韓国語の勉強を始めたときは、日本語と同じ発想が多いことに驚きましたが、やはりギリシャ語は英語と同じ圏内にある言語なのだなあと最近痛感しています。
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>去年の秋ごろから、ギリシャ人の神父さんのご好意で、その神父さんに韓国語を個人教授する仕事を得ていますが、面白いのは、西洋的な発想と違うために、初めは韓国語の文法でどうしても理解できないものが、説明や例文などを通して理解できた瞬間です。私はその瞬間をとてもドラマチックだと思います。ギリシャ語の述語の時制は過去・現在・未来ときれいに分かれていますが、韓国語では現在と未来を同じ形態で表します。“未来”と説明されている“〜l kkeosida”は実は推測形です。それが分かるまで、ずいぶん苦労をしましたが、それを理解した瞬間というのは、本当に新しい世界に踏み込んだ劇的な瞬間でした。そして、その劇的な瞬間は、ときどき体験されます。こういう現場に立ち会っていると、言葉を教える仕事はやめられなくなります。
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>私たちが英語を習いながら、たいていの人は、自分でも気がつかないうちに、英語の発想に触れているはずです。本当はそれはドラマチックなのだけれども、先生も学生もそうは思っていないのではないでしょうか。まあ、中学生ですから、日本語と英語の出会いという劇的な体験もないのかもしれませんけど。
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>日本語しか知らなければ、そのような別世界は垣間見ることもできません。私たちは、漢文や古文を学ぶ機会は減りましたが、英語を学ぶことによって、日本語とはずいぶん違う思考の世界を学ぶ機会を得ました。また、今は英語以外の言語を学んだりその言語に触れる機会も容易に得られるようになりました。これは本当にすばらしいことです。
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>大学生のとき、授業でラテン語を取ったことがあります。何だか分からないけれども魅力を感じ、まだできもしないうちから、ラテン語で書かれた本を手に入れようとしました。しかし、当時の私にはそういう情報を集める技術もなかったし、インターネットも存在しなかったので、教材ではない実物のラテン語テキストを見る手がかりも得られないまま、ラテン語学習への熱は冷めてしまいました。しかし近年になって、インターネットを始めてから調べてみたら、ラテン語のテキストがわんさと出てきたのです。いつかきっとこの言語をものにしたいという野心がまた沸き起こってきました。
>
>こういう恵まれた環境に私たちはいます。志さえあれば、私たちの視野をいくらでも拡げてくれるはずです。当面話す必要がない人は、話せなければと思う前に、外国語で書かれたウェブページを読めるように(あるいは、聞けるように)なることを目標にするといいと思います。いや、そう思っている人は、ずいぶん多いでしょうね。外国語を身に付ける目標はいろいろありますが、このように新しい世界を自分の中に持つことも、とてもいい目標になると思います。


 私が全面否定をしたかのような、受け取られ方をしたかたもいらっしゃるようなので補足説明します。

 ijustatさんのご意見ももっともだと思っています。

 語学学習の側面には、確かにそれがあると思います。自分の知らない外国語の
考え方を知る。。。

 話せなくても、語順のままに、つまり日本語を読むように、
読めるようになってほしいし、なりたいです。

 最終的に本をたくさん読めば(語順どおりに)、会話もできるようになるというのを読んだことがあります。音読も有効だと思います。
日本語の作文が上手になりたければ、日本語の本をたくさん読むこと。
これは日本の小学生に国語を教えるときの心がまえです。(日本語を国語に
置き換える)

 他の外国語の場合は、その国の文化を知るためにはじめるかたもあると思いますが
こと「英語」に関しては、
できることならば、流暢になりたい。
もっと話せるようになりたい。
と前向きに考えるべきかと思います。

英語の先生でも・・・私も流暢じゃないけど、そんな前向きの気持ちを
現代の日本人なら持とうじゃないかと生徒に言ってほしいです。

子供を育てる親として心から
お願いしたいです。
なぜなら世界で一番使える言葉だから。

文部省も話せない英語教育は問題だと思うという視点で
ずいぶん変わってきました。私はニュースで聞いて、よくぞ言ってくれましたと
心から大喝采の気持ちでした。

流暢でなくてもいいじゃないって言い切るのは
「あまりにも悲しすぎます」

もしも私たちの時代に英語を流暢に話せる日本人ばかりじゃなくても
未来には、話せる日本人になれるには、どうしたらいいか考えてくれと
つないでほしいです。

 なんでこんなことを言うかというと、
中学の日本の英語の先生が、
なんと、本人の発音で、英単語を読んで、発音テストをしたために
さんざんな結果になったということが
わが子の通う中学校でありました。
なにを考えてるんだこの先生は。と思いました。
自分の発音がどの程度かも知らないなんて。
流暢であってほしいという話とは違うかもしれませんが、
謙虚に自分の能力を受け止められていないからだと思います。

 どんな分野においてもそうですが
たとえば、野球ならば、同学年の同じクラブの自分よりも優秀な先輩を超えることを
めざすよりも、どんなに大それていても、イチローをめざしたいというような
大きな目標をもっている人のほうが、必ずのびます。

人に教える
先生たるものは、そんな大それたくらいの目標をもっていて当たり前だと思っています。生徒には、まあまあ、軽くこなせるあたりから。。。それでいいかもしれませんが。

私は、自分がその分野で仕事をするならば、
自分に対してきびしいものを求めます。
英語教育を考えたとき、文部省の指導要領だけでは理想の教育はできないと
思ったこと。
ある程度から必要になる文法的な説明は日本語が必要でも
発音、会話などは、日本人か゜たずさわるべきではないと思ったこと。
今の自分のおかれた状況で思う英語教育をたちあげられそうにないこと。
それらが、英語教育をする先生になるのを断念した理由です。

英語教育はどの程度であるべきかどうか、文部省の考え方にそって教育にたずさわるだけで十分だと思うかどうかは、各自の自由だと思います。

ただ、流暢でなくてもいいなんて「言ってしまっちゃおしまいでしょう」
趣味半分、または、外国に興味があるだけだからならいいけど。。。
そんなことは、先生自身が自分に対しても思ってるんじゃないんですよね?
私が聞きたいのはそこなんです。
生徒にならよくても、自分に対してもそう思ってるんじゃないですよね?
他の外国語ならば
まだしも、英語に対して思ってるんじゃないですよね?

もしも、いいえ、まったくそのとおりですよと言われたら・・・
頭をぶんなぐられたくらいに「ショック」です。むちゃくちゃ悲しいです。
ひどすぎますよ。