1732   Re^15:話せなくても外国語学習は役立つ>全員か一部か
2004/02/25 14:13:03  lapis225   (参照数 22)


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>>大変難しい問題ですが、私自身はそんなに「流暢な会話能力」を身につけられなくともいいと思っています
>>何故なら、私のいるここは日本だから。
>>そして、英語が教科として位置づけられている中には、
>>英語を学ぶ中で、生徒たちの精神成長に関して助けになるものがある
>>と考えられているということもあるからです
>>(そうでなければ、数学・図画工作とか音楽なんて無くなって当然でせう)
>>英語学者渡辺昇一の意見に、ある意味私は賛成なのです。
>>ただ、英語という異質なものに対して排除・逃避というパターンをとらない
>>オープンな心を持てる日本人になってとは思っています。
>>というより、それが英語を学校でやるキモのひとつですよね。
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>私もゆどうふさんの意見に賛成です。言語能力の中心を会話とするのは、もしかしたら西洋的な考えで、日本人には合わないかもしれません。もちろん、日本語を解さない人と対面しなければならない人にとっては、その人の理解できる何らかの外国語で話す必要はあるでしょう。しかし、古文や漢文のように、話さないし、流暢ではなくても理解できたほうがいい“外国語”もあるわけです。英語も大多数の人にとってはそうだと思います。
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>英語は会話する機会よりは、目に触れる機会の方が多いと思います。多くの人は英語が少しは理解できるので、そのことに気がつかないのではないかと思います。例えば、輸入された缶詰の表示など、英語のままのものがけっこうあります。私たちはたいていこのくらいの表示は読めるので、それが読めないときの不便さを考えないのです。
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>たとえば、以前、美味しそうなパスタを買いましたが、袋の表示が全部フランス語でした。フランス語は英語と似ているから多少は分かるだろうと高をくくっていたら、何とこれが、単語一つも分かりません。妻から「どうやって作るの」と言われましたが、さっぱりわからない、と答えるしかありませんでした。ずいぶん長い間そのパスタは放置されたままでしたが、あとで妻が適当に料理に混ぜて処理したようです。表示が理解できないと、こういうことになります。
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>また、こんな意見もあります。『日本人と日本語』(野元菊雄著、筑摩書房)という本で引用されていた部分です。
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>「日本語にはいままでとはまったく別の論理があり、これがどういう発展を示すか、というようなことについて、物理学者ハイゼンベルク氏のことばを紹介しておきましょう。藤井簡治氏の引用によりますが、次のようだそうです。――主観的認識と客観的認識の両者に等価を与え、その接触面を空間に拡大した私の(不確定性)理論は、主観を動かしがたい原点として確立されたヨーロッパ文明外、つまり動詞を受身として使うことを(新しく)学んだ新大陸アメリカや、さらに主語さえ省略されることの多い日本語圏で、新発展を見ることを期待する。……」(40ページ)
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>この部分は、日本語も論理的な言語であることを証明する根拠のひとつとして引用されているものですが、私は別の観点で、つまり、外国語を学ぶことによって、別の思考回路、別のパラダイムを身につけることができるという観点で読みました。外国語の学習は、初めはその思考の流れにショックを覚え、何という理不尽と思いますが、慣れてくると、私たちの心の中に新しい地平が開けてきます。これは、ものを考えることを仕事としている人にとっては、とても大事なことだと思います。
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>同じことが『外国語上達法』(千野栄一著、岩波書店)にも書かれています。どこに書かれていたか、ちょっと見つけられませんが、ある物理学者は自分の新しい思考回路を作るために日本語などの外国語を学んでいる、という内容でした。もしかしたら、このハイゼンベルクという人のことかもしれませんね。この人の目的は、会話ではなくて、新しい思考の筋道を得ることでした。そういう意味で、「英語を学ぶ中で、生徒たちの精神成長に関して助けになるものがある」というのは真実だと思うし、それによる精神成長を受けた人とそうでない人とは、ものごとを考える上でどこかに違いがあるでしょう。こっちの方に、私はゾクゾクする魅力を感じます。
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>そういう意味で、私たちが英語を学ぶのは、たとえ話せるようにならなくても、役に立つものだという意見に賛成です。

どんな勉強でもそうですが・・・

たとえば、古典にしろ、化学にしろ、
高校あたりになると、こんなものが実生活に役立つのかという考えにつきあたる
(高校以前でも)生徒があると思います。

そう意味で、上記の意見にも一理あると思います。
長い人生には、「あらゆる視点」「あらゆる論理の展開」があることを
知っていたほうが山あり谷ありの人生を乗り越えやすくなりますからね。
「どうして勉強が必要なの?」という小学生の問いに対しても
よく似た答え方を私はします。もっとわかりやすく説明して。

ただ、それは「なぜ全員に義務的に英語を学ばせるか」という問題について語る場合ではないでしょうか。

英語を学問として勉強しているならば、または
語学に興味があるというならば

話せなくってもいいのさというのは、単なるひらきなおりにしか聞こえない。

こんなに世界がめまぐるしく変わる現在に
いちいち語順変換して訳していては間にあわない。

語順変換的な学習方法は、漢文などの勉強方法に由来するようですが。

語順変換までして、追求してもいいのは、英語圏の人にとってすら
「難解な英語の文章」にたいしてのみというくらいになるべきでしょう。


第一、TOEICなどで、世界的に見て、相当低ランクを維持している日本人。
これには問題があると思います。
言語において、きわめて独特な文法と、あまりに流動的な語順が可能になる
日本語に慣れてるがゆえに、

逆に語順がはっきりしているものなどに頭がついていきにくい
という問題もあるかもしれません。

しかし、あんなに単純な語順でなりたっている英語を話す人々が
簡単に日本語を学んで話せるようになることを考えたら、
独特な日本語に慣れてるから、英語は話しにくいというのは
「単なる甘え」「いいわけ」だと思います。

まあ、機械の進歩により、口頭でいきなり話していても、途中で見事なばかりに
通訳変換してくれる機械が登場する時代もすぐそこに来ているかもしれませんが。

英語的思想、ものの考え方に気づくのは、
残念ながら、相当、英語の真髄に近づいてくるほどに勉強したからのように
思います。

英語を習ってるにこしたことはない=日本人全員が英語を学ぶべきだということに対する答えにすぎません。

少なくとも外国語を個人的にもあえて学びたいと思っている人。または外国語そのものに携わる仕事をする人たち。
「話せなくてもいいのだ」とそんな人たちが堂々と言っててどうする?!

いつまでたってもへたくそな英会話しかできない日本人をどうした
らいいか考えるべきだと思っている人が中心の時代になっていると思っていました。

時代に後退した考えにあえてびっくりです。

日本人がいつまでたっても低レベルな英会話になる理由をつきとめるのも、
「英語」そのものが仕事である人たちの、または真剣に英語を考えるひとたちの
仕事またはテーマではないのかと聞きたくなります。

もうひとつ、つけくわえるならば、

どんな難解な文章も「そのままの語順で欧米人のように」読んでから訳さなければ、
単語の語順変換にとらわれて、ヘンな訳になるのは、かなりの学習者ならば誰でも気づいているのではないでしょうか。。

私は、英語のこの訳がどんな訳が適切なのかわからないといわれたときに
見ると、
たいてい、語順変換と単語の意味を並べ替えることに終始しすぎて、
英語のままで前から終わりに軽く読んで、なにを言いたいか推測する能力に欠けていることに気づきます。

「これは会話なのだと思いなさい。語順のままイメージでまず読みなさい」と指導しています。

英語は言いたいことをはっきり言いたい言語です。
なれた人は、日本語で読むよりも難解な文章は英語のほうがよくわかるといいます。

難解な英語の文章も「英会話能力」が優先すれば、「読みやすく、翻訳しやすく、はるかにわかりやすくなります」

そのためにも卓越した英会話能力は必要だと思うのです。

ただし・・・
*高等な文章は、省略された単語が多いのでむずかしい面もあります*
*それから日本語すら、遠慮がちに会話先行タイプの会話にならない
A型的日本人には、英会話そのものが性格的に不利かもしれません*