1731   話せなくても外国語学習は役立つ
2004/02/25 10:28:32  ijustat   (参照数 19)

こんにちわ、ゆどうふさん!ijustatです。

>大変難しい問題ですが、私自身はそんなに「流暢な会話能力」を身につけられなくともいいと思っています
>何故なら、私のいるここは日本だから。
>そして、英語が教科として位置づけられている中には、
>英語を学ぶ中で、生徒たちの精神成長に関して助けになるものがある
>と考えられているということもあるからです
>(そうでなければ、数学・図画工作とか音楽なんて無くなって当然でせう)
>英語学者渡辺昇一の意見に、ある意味私は賛成なのです。
>ただ、英語という異質なものに対して排除・逃避というパターンをとらない
>オープンな心を持てる日本人になってとは思っています。
>というより、それが英語を学校でやるキモのひとつですよね。

私もゆどうふさんの意見に賛成です。言語能力の中心を会話とするのは、もしかしたら西洋的な考えで、日本人には合わないかもしれません。もちろん、日本語を解さない人と対面しなければならない人にとっては、その人の理解できる何らかの外国語で話す必要はあるでしょう。しかし、古文や漢文のように、話さないし、流暢ではなくても理解できたほうがいい“外国語”もあるわけです。英語も大多数の人にとってはそうだと思います。

英語は会話する機会よりは、目に触れる機会の方が多いと思います。多くの人は英語が少しは理解できるので、そのことに気がつかないのではないかと思います。例えば、輸入された缶詰の表示など、英語のままのものがけっこうあります。私たちはたいていこのくらいの表示は読めるので、それが読めないときの不便さを考えないのです。

たとえば、以前、美味しそうなパスタを買いましたが、袋の表示が全部フランス語でした。フランス語は英語と似ているから多少は分かるだろうと高をくくっていたら、何とこれが、単語一つも分かりません。妻から「どうやって作るの」と言われましたが、さっぱりわからない、と答えるしかありませんでした。ずいぶん長い間そのパスタは放置されたままでしたが、あとで妻が適当に料理に混ぜて処理したようです。表示が理解できないと、こういうことになります。

また、こんな意見もあります。『日本人と日本語』(野元菊雄著、筑摩書房)という本で引用されていた部分です。

「日本語にはいままでとはまったく別の論理があり、これがどういう発展を示すか、というようなことについて、物理学者ハイゼンベルク氏のことばを紹介しておきましょう。藤井簡治氏の引用によりますが、次のようだそうです。――主観的認識と客観的認識の両者に等価を与え、その接触面を空間に拡大した私の(不確定性)理論は、主観を動かしがたい原点として確立されたヨーロッパ文明外、つまり動詞を受身として使うことを(新しく)学んだ新大陸アメリカや、さらに主語さえ省略されることの多い日本語圏で、新発展を見ることを期待する。……」(40ページ)

この部分は、日本語も論理的な言語であることを証明する根拠のひとつとして引用されているものですが、私は別の観点で、つまり、外国語を学ぶことによって、別の思考回路、別のパラダイムを身につけることができるという観点で読みました。外国語の学習は、初めはその思考の流れにショックを覚え、何という理不尽と思いますが、慣れてくると、私たちの心の中に新しい地平が開けてきます。これは、ものを考えることを仕事としている人にとっては、とても大事なことだと思います。

同じことが『外国語上達法』(千野栄一著、岩波書店)にも書かれています。どこに書かれていたか、ちょっと見つけられませんが、ある物理学者は自分の新しい思考回路を作るために日本語などの外国語を学んでいる、という内容でした。もしかしたら、このハイゼンベルクという人のことかもしれませんね。この人の目的は、会話ではなくて、新しい思考の筋道を得ることでした。そういう意味で、「英語を学ぶ中で、生徒たちの精神成長に関して助けになるものがある」というのは真実だと思うし、それによる精神成長を受けた人とそうでない人とは、ものごとを考える上でどこかに違いがあるでしょう。こっちの方に、私はゾクゾクする魅力を感じます。

そういう意味で、私たちが英語を学ぶのは、たとえ話せるようにならなくても、役に立つものだという意見に賛成です。