こんにちわ、らぴすさん!ゆどうふです。
>たしかに、日本語ですら、えっとあれ。あれだよって >(私もなりがち・・・) >日本語の名詞すらど忘れして、出てこないこともよくあるとなると >次の言葉でどんどん英語を言い換えなさいなんて言われて、頭がついていけば >苦労などするかと思うかもしれません。 >また、情緒的というよりは、機械的に感じるのかもしれませんね。
そうですね、むしろその後者側の理由が問題とされます 「馬鹿げている」と捉えられがちなのです ただし、自分が発話能力を身につけていてそう言っているのかとは…別(笑)
>常日頃、頭でっかちで、英語に関する学術的分析はできても >英会話はできないという大学教授、高校教師、など >英語の専門家の先生がまず英会話ぺらぺらではないというのが >日本人として問題だと思っていました。 > >そういう自分も、ぺらぺらとはいかない。。。これにもいらだっていました。 > >また、英語教育のための教育方法を習う授業も >「それじゃあだめでしょう」と思う理論ぱかりでした。
その教育方法の理論と言うのに興味があります。 なぜならば、理論というものは、どんな学問もたいていそうですけど、 経験と事実、予測と合理の間を縫って懸命につくられたものなので、 結構「ある事実に関しては」あたっているよ、という事も多いからです そして、学習者のタイプ・目的というのも教育方法理論のとらえかたを大きく変えます 極端な話、中世神学者たちは「ラテン語」で世間話とかしようとは思わなかったと思います だから、聖書を読む高度な読解力だけでいい… ならば、当然とられるべきなのは訳読法ですよね。
らぴすさんがダメだと思えたのは、何と言う理論ですか? なぜ、らぴすさんはその理論はダメだと感じられたのですか?
>英語ぺらぺら、そして英語の文章をそのまんま訳さずに理解できなくて >なにが英語教育か。文部省のありかた、公立学校では冒険的な教え方のできない >当事の事情(今はどうか知りません。。。ただ私学ならば、かなり流動的に >できるようですが)
大変難しい問題ですが、私自身はそんなに「流暢な会話能力」を身につけられなくともいいと思っています 何故なら、私のいるここは日本だから。 そして、英語が教科として位置づけられている中には、 英語を学ぶ中で、生徒たちの精神成長に関して助けになるものがある と考えられているということもあるからです (そうでなければ、数学・図画工作とか音楽なんて無くなって当然でせう) 英語学者渡辺昇一の意見に、ある意味私は賛成なのです。 ただ、英語という異質なものに対して排除・逃避というパターンをとらない オープンな心を持てる日本人になってとは思っています。 というより、それが英語を学校でやるキモのひとつですよね。
でわでわ!
ゆどうふ。
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