>気持ちが先でしょう。なぜなら、私たちも、私たち自身の“気持ち”で、私たちよりも若い人たちの言葉に接しているからです。若い人たちだって、上の世代の人たちの集まりに顔を出すなら、それにふさわしい言葉遣いをした方が歓迎されます。気持ちが先だからです。 > >まあ、こういう現象は本当に面白いもので、“乱れている”という意識自体が観察の対象になると思います。たしか『徒然草』にもそういう段がありました。私にとっては、兼好法師が“いい”と言っている表現も“だめ”と言っている表現も、どちらも格調高い文語体でしたが。(笑)
もちろん、おっしゃるとおりです。 それはあえて理解したうえでの意見です。 ですが。。。うちの高校生の息子も「私と」同様の意見です。
正しく動詞変換を学んで、しっかり学習している学生として また、自分の意見を文章として書き、 ひとつの論文として仕上げる場合、 そのようなら抜きの文章では、読者や先生に訴えたい内容も貧相に見えます。 実は私以上に、高校一年の息子はああいう表現は嫌いだといっています。
もしも時代とともに、変化しなければ 今も「〜でそうろう」や「いとおかし」が続いていることでしょう。 まったくもっともな話です。
それも正しいとするならば、 早い時期に国語教育のなかで認定するべきで
入試や試験というものを真剣に考えているものにとっては おかしいことをおかしいと常に意識する必要があるわけです。
それはそういう真剣に進学や試験を考えている人がそのように気をつけて いればいいんじゃないの?になるかもしれませんが・・・
残念ながら、若いからみんながみんなそのような話し方をしていると いえるほども蔓延していません。
ある種の一部のかたたちが話しているから問題なのです。 「通販」で有名な「通販生活」ではこういった言葉のありかたについて 喧々囂々の意見が特集記事としてよく取り扱っています。
さて、問題は、定着する表現でしょうか。
自分の知性の品格をどの程度に表現したほうがいい相手か考えて 相手のタイプにあわせて、表現を変えるのがいいかもしれません。
超○○だも死語になりました。
このように死語になるばかりでなく、新語、新しい表現に迎合して、すでに死語になってることも知らずに使い、バカにされているかたも少なくありません。
一時流行った「えぐい」も使われなくなりました。 今、どの程度に「流行っているのか」どれくらいにひろまっているのか。 どういった人たちに使われているのかということに
敏感に感じながら言葉を使いわけることが望まれることだと思うというのが もっとも私の言いたかったことかもしれません。 言葉がたりませんでした。
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