1640   『バカの壁』
2004/02/07 19:12:17  ijustat   (参照数 21)
これは 1569 [Re:思考が言語を規定する?] への返信です

ショウコさん、こんにちは。ijustatです。

>>「バカの壁」の養老タケシ(すみません字が出てこない)さんは
>>クリスチャンやユダヤ教、モスリムを信じる民族は唯一神なので
>>答えが一つ、明快な哲学になりがちで
>>日本人は八百万の神を信じているので曖昧な答えを好みがち、だと書いていたように思います。(思い違いがあったらすみません)
>
>その本、今日『日本語ジャーナル』を読んだら紹介されていて、関心を持ちました。その書名に同じ日にまた出会ってしまったので、ますます読んでみたくなってしまいました。ただし、唯一神と八百万の神との文化的比較はよく聞きますが、私には疑わしく感じられます。日本人の中で、八百万の神の存在を信じている人たちと、仏教を信じている人と、物質的なものだけを信じている人と、儒教を信じている人と、キリスト教を信じている人を、それぞれ比較して、それらの人たちがどれだけ思考の明快さを志向しているかを調べれば、何かが出てくるかもしれません。いずれにしても、養老孟司先生の本は、ベストセラーにもなっていることだし、ぜひ読んでみたいと思います。

『バカの壁』を先日キョボ文庫で買い、とても面白く読みました。特に、話したって通じないということは、この本で書かれなくても、日常体験していることでしたから、痛快な気持ちで読みました。それと、人間は変わるけれども言葉は変わらないということも、言葉の膨大な用例を分類する際に問題になることなので、親しみを持って読みました。現実にはこれらのこととまったく逆に考えて生きている人が多いんですよね。

でも、この本にも細部で問題はあります。、「私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追究する癖が無い。それは当然のことで、『絶対的真実』が存在していないのですから」(20〜21ページ)と著者は言っていますが、本当にそうなのかはやはり疑わしいと思います。

また、ソシュールの唱えた「シニフィアン」と「シニフィエ」の説明として、シニフィアンを「言葉が意味しているもの」でシニフィエを「言葉によって意味されるもの」と言っていますが(76ページ)、シニフィアンは“音響心象”つまり“言語記号”で、シニフィエは“概念”つまり、これが“言葉が意味しているもの”です。著者はちょっと勘違いしておられる。まあ、口述筆記だから、こういうところに食いつくのは不当な態度と言えるでしょう。ただ、編集部でそれが事実かどうかを確認すべきだったと思います。

それと、「ギリシャ語を調べると、冠詞は名詞の後ろにあっていいことになっている」(78ページ)というのも、誤解を招きやすい表現です。少なくともコイネー・ギリシャ語と現代ギリシャ語では、冠詞をその名詞の後ろに置くことはありません。冠詞は、名詞の前か形容詞の前(または冠詞の前!)に置くものだからです。ただ、名詞を修飾する形容詞が後ろに来れば、その形容詞を修飾する冠詞は結果として名詞の後ろに来ます。しかし、それをもって“名詞の後ろにある”とするのは無理があると思います。そのときの冠詞は、その名詞を後ろから規定しているのではなくて、その後ろの形容詞に冠しているからです。まあ、本題からそれた小さなことだから、大々的に取り扱うのも変だけれど、この説明はちょっと弱いし、蛇足だったと思います。

それから、キリスト教を一言で「カトリックよりプロテスタントの方が原理主義的」と言い切っているのも、あまりにも大胆すぎるような気がします。まったく見当違いとはいえないけれど(原理主義という言葉はプロテスタント教会で使い始めたから)、ちょっと単純化しすぎています。キリスト教についての説明がこうだから、私の知らないイスラム教の説明についても、同じように疑わしく感じられます。もっとも、どちらも日本では当事者が少ないので、好き勝手なことを言っても“でたらめを言った”と非難される心配はないでしょう。

確かにこの本は重要な視点を与えてくれるし、啓発もしてくれるけれども、著者の専門以外の知識は、ちょっと危なっかしいものがあるようです。私はこの本は読む価値があると思いますが、教科書としては使えないでしょう。博識な大学の先生の、ちょっとためになる楽しいおしゃべりとして、この本を読んだほうがいいと思います。