1574   思考は体験についていけない(汗)
2004/01/10 0:45:51  ijustat   (参照数 25)
これは 1565 [Re:思考が言語を規定する?] への返信です

NOVIOさんこんにちは。ijustatです。

>思考は言語を超えると思いますよ。
>言語はみんな不完全で語彙は限定的ですから
>わたしたちの思考におっつかない。

そうですね。言語はそれぞれが癖を持っていて、それぞれが限界を持っていますね。それをひしひしと感じるのは、翻訳をするときです。これは何も外国語に限ったことではなく、日本語の方言同士の訳でもニュアンスまでは訳せないものがよく出てきます。このクラブでゆどうふさんが大阪弁について、標準語ではニュアンスを伝えられないと説明しているのを見て、そのことを感じました。

ただし、言語を一つしか知らない人の思考は、たぶん言語を超えることはできないのではないかと思います。言語は不完全で制約が多いにもかかわらず、その中にどっぷり浸かっていると、それが宇宙として完結してしまうからです。だから、自分の思考を言語から解放させようとするならば、まずは外国語を身につける必要があるでしょう。できればいくつかの外国語を身につけ、その中でも一つくらいは、ニュアンスの把握までできるくらい(完全ではなくても)、深い理解力を身につける必要があるのではないかと思います。

しかし、体験は言語を超越しています。思考は言語を用いて行われるので、あくまでも言語に頼っています。私たちはいろいろな体験の中で、何かを感じたり、または“分かった”と感じたりすることがありますが、それを言葉で表現しようとすると、まったく手に負えないことがよくあります。思考が追いつかないわけです。しかし、この“分かった”という感覚を出発点に、徐々に思考の幅や深さは広がっていくのでしょう。

そのように、体験は言語では伝えられない部分がかなりを占めるようです。韓国での生活や人間関係などについて、日本しか知らない人に話すのは、至難の業です。恐らくは、半分も通じていないだろうし、韓国語の中で行われている意思疎通や思考に関する部分は、説明してもたぶんほとんど何も伝えられないのではないかと思うことがよくあります。自分と相手とに言葉の壁があるわけでもないのに、言語が異質なものの理解に厚い壁を作ってしまう。たぶん、このクラブに来る人の中で他の外国に住んでいる人も、日本で私と似たような経験をしているでしょうし、その国でも、日本のことをいくら説明しても理解してもらえない経験をしていると思います。

ところで、立花隆の本を読んでいたら、臨死体験した人は、口をそろえて自分が体験したことは口で完全には説明できないと言っているという話が出てきました。人間が死んで生き返るという現象が本当にあるかないかはともかくとして、その人たちの体験は一様に、言語では表現しつくせないというところが印象に残りました。これは、思考が言語を超越するのではなく、思考が自分の体験についていけないことだと思います。

もっとも、私たちは言葉では説明できないけれども互いに理解できる経験的な共通項が、言語以上に膨大な部分を占めているようです。だからこそ、日本の人に韓国について説明したり、韓国の人に日本について説明したりするのが難しいのでしょう。それらは、思考にこびりついてはいるけれども、実は思考の外にある“体験”だといえるかもしれません。

>日本でビジネスに一番大切なものはなに?っていうアンケートを
>とってベスト10をとったそうです。
>それを英訳しようとしたら半分以上訳語がなかったとか。
>価値観が違うので言葉がないんですよ。
>逆に英語や仏語で勉強した概念の多くには対応する日本語がない。
>
>英語と日本語の守備範囲がちがうんですよね。
>一生に一度も使わなくても外国語を学習する価値はあると
>いつもぼくが断言しているのはそのためです。
>視点が広くなり、思考を表現するすべを与えてくれるからです。

これは本当に面白い事実ですよね。自分の思考の範囲を広げるためにも、外国語は必要だなあと、NOVIOさんの指摘を読みながら、感じました。それと同時に、ふと思ったのですが、日本語にできない抽象語は、やはり和語や漢語に言い換えるのは難しいのではないかと思いました。意思疎通の効率を考えれば、そのまま使っていいとは言えないけれど、個人的な思考の中では、外国語を外国語のまま使うことは、やっぱり必要なんでしょうね。

>ちなみにフランス映画と邦画、日本食とフランス料理は似たとこが
>あると感じたことはありませんか?フランス人もそういってます。
>でもどこが似てるか説明しはじめると意見が一致しません。
>言語がちがうからです。何もいわなければわかりあっているのに。

これこそ、体験に思考が追いつかないということですね。フランスについては、悲しいことに、何も知らないのですが、私たちの生活は、じっくり考えてみると、このように分かっているようで考えてみたら全然分からないことだらけなのかもしれません。何度も引用していて口幅ったいのですが、『時間』(滝浦静雄著、岩波新書)という本の冒頭に、「では、いったい時間とは何でしょうか。誰も私に尋ねないとき、私は知っています。尋ねられて説明しようと思うと、知らないのです」というアウグスティヌスの言葉がありますが、言語の桎梏からいくらか自由を得たとき、それらの得体の知れない世界が見えてくるのでしょう。こういうものを垣間見ようという努力は、外国語学習において、とても重要なことかもしれません。外国語自体が得体の知れない世界ですから。