1569   Re:思考が言語を規定する?
2004/01/09 1:54:43  ijustat   (参照数 27)
これは 1563 [思考が言語を規定する?] への返信です

ショウコさま、こんにちは。ijustatです。

>さてNOVIOさんが
>「英語を和訳すると日本人には共感をよばず、
> 日本語を英訳すると曖昧過ぎて意味が通らない」という趣旨のことおっしゃっていらしたようですが、本当に私もそう思います。

そういえば、命題に対する否定が相手を否定することにつながらないのはギリシャ語も同じようで、何かを勧められて、それを断る場合、“いいえ”にあたる“オヒ”を使うと習いました。その点、日本語と韓国語はよく似ています。同じ状況で、“いいえ”にあたる“アニョ”を平気で使うと、きつい性格だと評価されます。韓国語は日本語よりも“No”を多くの場面で使うのですが、面と向かって否定できないことがあるという点では、日本語とよく似ています。

>「バカの壁」の養老タケシ(すみません字が出てこない)さんは
>クリスチャンやユダヤ教、モスリムを信じる民族は唯一神なので
>答えが一つ、明快な哲学になりがちで
>日本人は八百万の神を信じているので曖昧な答えを好みがち、だと書いていたように思います。(思い違いがあったらすみません)

その本、今日『日本語ジャーナル』を読んだら紹介されていて、関心を持ちました。その書名に同じ日にまた出会ってしまったので、ますます読んでみたくなってしまいました。ただし、唯一神と八百万の神との文化的比較はよく聞きますが、私には疑わしく感じられます。日本人の中で、八百万の神の存在を信じている人たちと、仏教を信じている人と、物質的なものだけを信じている人と、儒教を信じている人と、キリスト教を信じている人を、それぞれ比較して、それらの人たちがどれだけ思考の明快さを志向しているかを調べれば、何かが出てくるかもしれません。いずれにしても、養老孟司先生の本は、ベストセラーにもなっていることだし、ぜひ読んでみたいと思います。

>思考は言語で行われるから、言語は思考と行動を規制していくのでしょうかね。
>それとも思考が言語と行動を規制していくのでしょうかね。(笑)

これはどちらともいえないと思います。両方が影響を与えているからです。二重言語使用者の中で起こるのだそうですが、同じ人間が、言語をスイッチすることで、価値観までスイッチしてしまうことがあると、『バイリンガリズム』という本で読んだことがあります。これは、言語がもっている大きな流れに思考が影響を受けていることを表わすでしょう。また、新しい外国語を学んである程度たつと、その言語の持つ論理的な構造が、学習者の頭の中に新しい思考の筋道を作ってしまうこともよくあります。おそらく、このクラブに来ている多くの人たちが、そのような経験をしているのではないかと思います。

しかしまた、思考は言語のあり方にも挑んでいると思います。思索をする人が新しい概念を作り出そうとするとき、その言語は非日常的で、よそよそしく、また不自然なことがあると思います。英語が男女の性差を克服しようとする足掻きは、まさにそのようなものだと思います。しかしそれらは後に不自然さを克服して人口に膾炙するようになり、ついにはその言語に定着してしまいます。そうすると、思考が言語を規制するのに成功したことになります。

>韓国には沢山のクリスチャンの方がいらっしゃると聞きました。
>でも、もともとは仏教か儒教の影響が大きいと思います。
>韓国語も日本語のように曖昧な表現が多いのでしょうか。
>また政治によって信教を奪われた中国の方の言語は
>昔と随分表現が変わっていっているのでしょうか。

中国語についてはほとんど知らないのですが、韓国語についてなら、少しは答えられます。韓国語には、あいまいな表現が多くあります。日本語と同じく、論理的に説明しにくい「おかげさまで」にあたる“トクプネ”という表現もあります。自分の要求を相手に遠まわしにそれとなくほのめかし、相手の“ヌンチ(=察し)”に任せる態度もあります。それにもかかわらず、ストレートで率直な言い方もよくします。

総合的には、韓国語は日本語よりもやや率直に表現されるようだと思います。しかし、文化水準の高い家庭では、自分をあまり主張せず、控えめな態度をとり、小さな利害の不一致があったとき、駆け引きするのを面倒がる傾向が強いようです。そしてそのような人たちは、社会で比較的いいポジションにいることが多いのですが、自分の意見をあまりおおっぴらにしないので、目立ちません。私はそこに韓国文化の真髄があるのではないかと見ていますが、韓国人の知り合いは、私のこの考えには反対のようです。(笑)