1342   Re^10:アメリカと宮崎監督
2003/05/05 7:38:23  Kotori   (参照数 116)
これは 1341 [Re^9:アメリカと宮崎監督] への返信です

ijustat様、皆様、こんにちは。

>ひゃあ、こんなところでもアメリカは徹底しているんですね。この徹底ぶりが将来イノシシやオームのように暴走しないことを願うばかりです。すべての宗教や思想の自由は、徹底されると逆に、すべての宗教や思想を不自由にする可能性がありますから。

「アメリカは、」というより、「アメリカ北東部のある州で」ということにしておきましょう。アメリカ合衆国という所は、地域によって考え方がまったく変わりますから。私が住んでいる地域では、99%を白人が占めているにも関わらず、わりとリベラルな雰囲気があって、最近はアフリカからの難民の数が増えています。彼らは、まずアトランタなどの南部に到着後、評判を聞いて住みよい州へだんだんと移動するのだそうです。こんなに寒い北の州でも、住み心地がよいと聞けばやはり来たくなるのでしょう。私は市立のファミリー・シェルター(家を失った家族が一時的に入居できる場所。)でボランティアをしていたことがありますが、入居している人のほとんどがソマリアやスーダンからの難民の家族やアメリカ人のシングル・マザーとその子ども達でした。親が家捜しに出かけている間に子どもを預かるための託児所というか子ども部屋(乳幼児から中高生までをあずかる)がついていて、私はそこで子供たちの面倒をみるお手伝いをしていました。そのボランティア活動は、私の大学の課題の一部でもあったわけですが(専攻が教育系なもので。)、この州の、よそ者を受け入れつつ共存しようとする意識の高さには、驚かされるものがあります。それは、(例えばカリフォルニア州などの外国人が多い州を除けば)全米のなかでも珍しいという可能性もあります。南部など、閉鎖的な地域がたくさんあるようですから。

>日本や韓国では、ある意味ではアメリカの価値観を世界的価値観の標準のように考えている傾向があります。アメリカには、私たちにとって思いもよらないような優れたものがあるかと思えば、一面ではとてもそっけなくてつまらない面もあるようです。「以心伝心」や「沈黙は金」というのは、人間の重要な徳目に数えられると思いますが、それが理解されないというのは寂しいことです。アメリカ人に理解されないからこれはよくないと思う人が多くならないことを願うばかりですね。

そうですね。また逆に、外国のアニメ・ファンのなかには、日本にすごく憧れている若者たちがいて、彼らが実際に日本に行ったら絶対に幻滅してしまうんじゃないかと心配になるくらいです!どこの国にもかならず長短ありますものね。ほんとうに、アメリカに来て黙っていたら、ほとんど理解されることはないと思います。思ったことは口に出して言わないと、誰も察してはくれません(^^;)私も、アメリカに来てから、さっぱり口に出して言った方が気が楽になるようになってしまいました・・・。日本に居たころは、言うか言うまいか迷ったら必ず、言わない ほうを選んでいましたが、いまでは、言う ほうを選びます。

ちなみに、ここの州のアメリカ人の、他人に対しての気配りは相当なものですから、たとえこちらが黙っていたとしても、思ったことを言う機会をつくってもらえることはあるかと思います。また、あからさまなニーズだったらすぐに察してもらえます。ほかの州ではどうだか知らないので、「ここの州では」と限定しておきますが、たとえば、少し大きな荷物を持っていたら誰かが助けてくれるのがここ。日本に里帰りをしたとき、重ーいスーツケースを持っての階段の上り下りがすごく大変だったのに(一歩一歩がやっとという感じで)、成田空港から所沢までの間、一人の駅員さん以外、誰も助けてくれなかった!日本人はなんて冷たいんだろうと思ってしまいました。ここの州だったら、例えば自分が建物のドアを開けたら、必ず後ろを振り返って、もしも誰かがそのドアに向かって歩いているのが見えたら(よほど遠くない限り)その人のためにドアを開けたまま押さえて待つのがあたりまえの礼儀です。例えば大学の構内にいても、自分の両手がふさがっていたら、その場に居る人はもちろんのこと、ちょっと遠くに居るひとでも走ってきてドアを開けてくれます。バスなどに乗り込むときに女性や高齢者に対して「お先にどうぞ」というのもあたりまえの礼儀です。ちなみに、私が住んでいるのは、ここの州で一番人口が多い小都市です。日本だったら、知っている人に対して親切にするのはあたりまえだけど、街ですれ違う他人達にはかなり無関心だと思います。特に東京近辺では。そうそう、3月にニューヨーク市に行ったとき、こんなおもしろいことがありました!地下鉄の混雑した電車内で、黒人のお兄さんが若いお姉さんをナンパしていて、ついにお姉さんから電話番号をゲット!したんですが書く物を持っていませんでした。自分の友達に聞いてもやっぱり持っていなくて、そうしたら隣に立っていたインド風の中年のおじさんがごそごそとかばんの中をなにやら捜し、ほら これ使え と言ってボールペンと紙切れを差し出したんです。お兄さんが受け取り、背が低かった友達の頭の甲に紙切れを置いて(友達に下を向かせ)、そこで電話番号を書きました。私とそのナンパされた黒人のお姉さんは顔を見合わせてクスクス笑ってしまいました。こういうことがあたりまえのようにおきるのがアメリカです(笑)

>へえ、それはちょっと意外した。ディズニー映画の主人公の多くは英雄のような人物で、その勇気と知恵と正義感とによって常人離れした活躍をしますが、そういう意味では、アシタカ少年はアメリカ人にもウケるだろうと考えていました。しかしその強さは、正義感というよりは執念を感じさせる(?)ので、あまりウケなかったと言えるのでしょうか。

そうではなく、もののけ姫や千と千尋の映画の世界があまりにも独創的かつ日本的で、欧米の文化からはとことんかけ離れたものだったため、その世界に迷い込んでしまった普通の女の子である千尋と同じ立場で映画を追えるほうが、勇敢なアシタカ少年についていくよりもラクだと思うのです。たとえば、アメリカの観客が「Spirited Away」を見ていて、「なにあれ?へんなのー。わっかんないなぁ。」と思っても、千尋だって「へんなの。」と言っているぐらいですから、「千尋だってわかんないんだから、ま、いっか。」と安心できると思うんです。そのようにしてある程度まで映画を素直に見続ければ、観客もそれなりにのめりこみ、自力で話を追えると思います。一方、「Princess Mononoke」では、アシタカ少年は勇敢に冒険をしますが、観客が混乱して「なに?何がなんだって?わけがわかんない!」と思ったとき、誰がその気持ちを救ってくれるのでしょう。映画館でフィルムを巻き戻しして話を確認できるわけじゃありませんし、観客は、「わからない!」という不安な気持ちを抱えたまま、映画を見続けるしかありません。それが最後まで続き、結局、多くのアメリカ人に、この映画は「ダークで複雑で意味がわからない」と思わせる結果になったのではないでしょうか。

>そういう私が現代ギリシャ語を勉強しているからといって、韓国に住む日本人は現代ギリシャ語に関心があるとは言えないように、アメリカの一部に宮崎駿監督の熱狂的なファンがいるからといって、アメリカ人は宮崎駿監督に惚れたとは言えないものです。

そうですね。「Spirited Away」のDVDには、special features として、映画製作現場の監督に関してのドキュメンタリーがついていて、宮崎監督はすごいんだな!とアメリカ人にも思わせるようになっています。私は、「風の谷のナウシカ」が日本で初公開されたときの日本列島の興奮ぶりを覚えていますが、それと比べるとアメリカ全体での宮崎監督の知名度や人気は・・・まだ全然という気がします。一般のアメリカ人には、「Hayao Miyazaki? 誰、それ?」という感じですから。そういえば、昔「風の谷のナウシカ」の公開キャンペーンで、安田成美が主題歌を歌いに所沢のパルコに来たんです。私は当時子どもでしたが、それを見に行ったのを覚えています。

>どんな作品でも、原文がいちばん深い意味を込めているとは思いますが、宮崎駿監督のアニメを英語で聞くのは、それとは別の新しい世界を感じられるかも知れませんね。

アメリカで販売されている宮崎映画のDVDにはほとんど全部、英語版とフランス語版とオリジナルの日本語版が収録されていますから、両方楽しめます。英語版の 「Spirited Away」は、日本語版とすこしせりふの内容が違う個所がありますが、私は、それがアメリカの観客の理解を大いに助けたと思います。そういう意味で、「Spirited Away」はとても良く出来た英語版だと思いました。「Princess Mononoke」のほうは、DVDを持っていないので、日本語版と英語版がどう違うか詳しく分かりません。