ijustatさんこにちわ!ゆどうふです。
>実は、この先生、大学では柔道部にいたのです。だから、“英語道”を唱え、柔道用語を用いているのです。日本人は、武道をやっている人が多いので、外国語を勉強するときにも、武道の発想がそこに入り込むことはよくあるのではないかと思います。私は中学のころ剣道をやっていましたが、残念ながら、韓国語学習に剣道の発想は入り込みませんでした。中学時代のスポーツだったから、もう忘れてしまったのかも。
なるほど、本当にやっておられたかたなんですね^^ 昔学んだ事が、その後の語学の考え方(ひいては、人生の考え方)にも影響を与えているわけですねこうしてみてみると、やっぱり教育って大きいものですね…
>でも、不思議なのは、明治維新のときの志士たち。外国との接触なんか、今の私たちよりもずっと乏しいか皆無だったはずなのに、その思想は世界を見ています。決して井の中の蛙が世界を勝手に思い描いているのではない。それはたぶん、儒学という世界思想が彼らの中に内在化していたからでしょう。
儒学…よく「日本は儒学の影響を大きく受けている」といいますよね (社会科でもそう学びました) しかし、私たちはそれをあまりに知らなさ過ぎる(もしくは、それがどういうことだか明確に認知していない)ような気もしますね 有名な「巧言令色少なきかな仁」(←思いっきり私としては納得いかない言葉ですが^−^;)とか そういうのはみんな知っていると思いますけど。 最近気づきましたが、私はとことんプラグマティックな視点でモノを見る傾向があるようです つまり、とことん身近、ミクロ的視点から 「○○の事例には役に立たない」というように。 「その理論は立派だが、その意見だけでは現実の悪い点は何もかわらねえんだよ」とか… その分、考えが全体的な視点にまで拡大しないので、 儒学を知って、少しでもその視点も獲得したいものです。 志士のみなさんの100分の1でいいので(笑)
>ところで、儒学で思い出したのですが、松本道弘をはじめ、武道的に国際社会で生きようとする人は、何かピリッと張り詰めた悲壮な雰囲気が漂っています。英語を学ぶ時にもそうです。しかし、論語を開いてみてください。開口一番、「学びて時にこれを習う。また楽しからずや云々」と、喜び楽しみから始まっています。日本の悲壮感でもなく、韓国の権威的重厚感でもない、論語の見せる余裕。学問の楽しみ、人格修練の魅力、その喜びを切に求めて、学問に志し、身を慎む。こういう生活も、なかなかよさそうです。
学ぶ楽しみ、考える事の大切さ… 固い固いと思われがちな儒学でも、一番最初の言葉は そういうことから入ってるんですね^−^ ちょっとなんだか、うれしいですね 今の時代は…いえ、この言い方はよくないですね たいていの先進国の中流階級的な人々…とすべきですね ほとんど多くの人は、望めばいくらでも学びつづける事ができます しかし、果たして学習への意欲があるか…? この「学ぶ楽しさ」を、多くの人が知るようになればいいんですけどね…
ちなみに、最近の調査では、 日本の大学生は、学習時間が一日二時間と少しが平均だそうです。 ちょっと時間はうろ覚えですが。 つまり、残りの22時間は…別の事に使われてるんでせうね。
でわでわ! ゆどうふ。
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