1230   Re^2:松本道弘による英語能力の諸段階
2002/10/23 12:42:48  ijustat   (参照数 27)

ゆどうふさま、こにちは。ijustatです。

>拝読させていただきました。なんだか、柔道みたいな感じもしますね^^
>でも、この直感間違ってないと思います。なぜなら↓
>1、まずは「受身」をしないとだめ(インプットをはじめの段階では徹底的にやる)
>2、英語道を貫くと、「思想」が身につく(柔道とかでもよく心が大事って言いますものね)
>などなど。

実は、この先生、大学では柔道部にいたのです。だから、“英語道”を唱え、柔道用語を用いているのです。日本人は、武道をやっている人が多いので、外国語を勉強するときにも、武道の発想がそこに入り込むことはよくあるのではないかと思います。私は中学のころ剣道をやっていましたが、残念ながら、韓国語学習に剣道の発想は入り込みませんでした。中学時代のスポーツだったから、もう忘れてしまったのかも。

>国際化という概念は確かに今までの英語学習の実力判定にはないですよね。
>だからTOEIC800点取っても…という事例が出てくるのでせう
>そういう態度はどうやったら身につくのか?これは英語学習ののりをこえて
>教育全体に問われてしまいそうな問題ですね(相手の文化や態度を「分析」「受容もしくは反論」「相互理解」するためには、ある程度の知性が必要とされるからです…特に、日本のように現実的接触が少ない場合はなおさらです)。

国際化というのは、体験してみなければ分からないものですよね。話ではたくさん聞いていても、実際に自分がその場に放り込まれると、聞いていたのとは違う。どんな経験でも、そんなものですよね。

でも、不思議なのは、明治維新のときの志士たち。外国との接触なんか、今の私たちよりもずっと乏しいか皆無だったはずなのに、その思想は世界を見ています。決して井の中の蛙が世界を勝手に思い描いているのではない。それはたぶん、儒学という世界思想が彼らの中に内在化していたからでしょう。

そういえば、私は新約聖書を読みながら、この本は異文化間交流の秘訣を教えていると思ったことがあります。もっとも、聖書の書かれた世界は、異文化間交流なんていう生ぬるいものではないし、聖書が関心を向けているのは、そういう部分ではないのですが、しかし読者に本題とはまったく別の意味を与えてくれることもあるのが、聖書の魅力だと思います。聖書を読んだり暗記したりしながら、その内容の黙想を続けていると、徐々に目が開けていくようです。

ところで、儒学で思い出したのですが、松本道弘をはじめ、武道的に国際社会で生きようとする人は、何かピリッと張り詰めた悲壮な雰囲気が漂っています。英語を学ぶ時にもそうです。しかし、論語を開いてみてください。開口一番、「学びて時にこれを習う。また楽しからずや云々」と、喜び楽しみから始まっています。日本の悲壮感でもなく、韓国の権威的重厚感でもない、論語の見せる余裕。学問の楽しみ、人格修練の魅力、その喜びを切に求めて、学問に志し、身を慎む。こういう生活も、なかなかよさそうです。

また脈絡のハッキリしない話をしてしまいました。^^;