ijustatさんこにちわ!ゆどうふ@大学です。
>たとえば、英語で書かれたホームページで、“submit”ボタンを押すかどうか考えている人に、英語ができなくてもいいと言うのは酷でしょう。ある言語で書かれた文献をどうしても読んでその情報を得る必要のある人に、その外国語は一般的でないから、学ぶ価値がないと助言するのは、ほとんど無意味です。つまり、必要な人には、必要なわけです。 > >また、英語の実力が中級ぐらいしかない人が、どうしてもある英語で書かれた資料を読まなければならないとき、その人に、あなたはもっと英語を勉強してからその資料を読んだ方が、英語の実力を伸ばすのに役立ちますよとアドバイスをしても、受け入れることはできないでしょう。 > >つまり、外国語は必要な人には必ず必要なわけです。日本国内でも、文字を読む必要すらない人がいるかもしれません。しかし、多くの人にとって、少なくとも、新聞を読むくらいの国語力は必要でしょう。それを、新聞を読む国語力を必要としない人がいるから、国語教育は無駄だとするわけにはいきません。
この日本で生きていく上でも、情報のやり取りをするツールとして読み書きはいりますよね。 国語が昔から…それこそ寺子屋のころから授業科目として扱われているのには、 やはりその重要性がほかの科目に比べてずば抜けて高かったからだと思われます。 文字が読めれば本が読める、本が読めれば情報を得られるというわけですし、 文字が書けるとなれば、それはもう情報発信者になれるということですから。
>同じように、英語は私たちの多くにとって、必要な言語です。英米人と話す必要のある人は少ないですが、少なくとも、最近は英語で書かれた文書が多くなってきていて、それを理解しないことには目的が達成できないことが多いから、英語の理解力は必要だと思います。(おっと、今、外が光って、雷が鳴りました!
ちょっと保存。)
を、雷は怖いですね。一瞬の停電でも、パソコン君には命取りですな(余談で失礼します^-^;)。
>そのような見方で学校での英語教育を眺めると、どうもそのような目的で英語を教えているのではなく、一種の知的訓練として、公式に則って英文の解読をさせているような気がします。そこで重要なのは、書かれた文章から得られる情報や思想ではなく、文法の知識です。要するに、テキストのメッセージはまったく理解できなくてもいいから、部分的に文法構造の分析ができれば、優秀な学生ということになるのではないでしょうか。 > >こういう英語教育では、“無用”どころか、有害だと思います。その後遺症は、あとあとずっとその人の足を引っ張るからです。むしろ、ほとんど何も分からないまま、辞書を片手に、目の前に置かれた英文と格闘して、その文章に書かれている情報や知識を手に入れようとする、素朴な熱意の方が、ずっと重要でしょう。
「後遺症」については、まったくそのとおりだと思います。 しかし私は「知的訓練」としての英語という側面をどうしても捨てきれないような気がします。 もしそれをやれば、数学、科学、化学、音楽、美術、書道、国語古典などの教科が 同様に捨て去られてしまうことになると思うゆえからです。 特に数学なんて、100%知的訓練以外の何者でもありません(たしひきかけわり算以外です…私、日常生活でつるかめざん<連立方程式>もつかったことないです^−^;) それにもかかわらずいまだに教科としてあるのは、やはり 抽象的概念を操り、公式を利用して解を導くための理論的アプローチ の習得のためではないでせうか。 (これまた余談ですが、ちょっと前の指導要綱の改変で 「円周率を"3"にして教えるだって?!ふざけんな!」という世論がわーっと流れたのは、なんだかんだいってみんなこのことを無意識に理解していたのでは、と思われます) 英語も、「まったく違う体系、音、文法の言語」として相対したとき、 再び日本語…自分の母語に立ち向かって考える力がつくのではないでせうか。
ただ、ijustatさんのいわれるように、ビッグなプロブレムがあります(←最近友人が気に入っているいいまわしです^^;) それは、実際の運用能力に結びついておらずコンプレックスになっていることです。 これは、どう考えても「成功体験がなかった」ということでせうね… その英語を使って、誰かと話が通じた、とか 文通できた、とか、自分の興味がある本が読めた、とか… ですが、ここでまたまたビッグなプロブレムが。 三人称の変化とか、過去形とかの、文法事項。 そういう「理屈じゃねえんだよ!体に叩き込みな!」というような、 「基礎」の時点で、どうやって生徒さんにあまり苦しまないでそれを習得してもらえるのでせうか…TT ドイツ語の格変化もそうですけど、「基礎」って本当につらくて地味な作業って気がします。ここでやめちゃう人も多いはずです。 でも、基礎がないと、それを使って自分の好きな活動はできませんからね…むー。
>私は、母語と外国語との線引きをはっきりさせない“理解する意志”というものが、(知的)生活には必要だと最近思うようになりました。分からないものを分かるようにするための様々なストラテジーが、私たちのまわりにはあふれています。フランス語ができなくても、フランス語の辞書を引けば、フランス語で書かれた公用文の内容が、何となく分かります。他の外国語でも、同じことが言えると思います。
をを、なんとなく理解できます!わかるような気がします たとえば、私スペイン語読めませんけど、ポケットモンスターのサイト(この間偶然に飛んだ)いったら、 なんとなくわかったですよ、書いてあること(間違っているかもしれませんが^−^;)
>それを私は“理解する意志”だと思っています。この“理解する意志”は、日本語だけに限ったことでなく、私たちの目の前に存在するすべての“情報”に向けられるものです。それは、知っている外国語に限らず、未知の外国語にも向けられます。外国語での知識・情報は、その翻訳で満足できる場合も多いですが、もっと精密に把握したい場合は、原語に当たる必要が出て来ます。“理解する意志”は、そのように、母語と他の言語との線引きをせずに、突き進んでいくものです。 > >こんなふうに外国語を見ていくと、外国語が身近に感じられ、外国語習得への強い動機が与えられると思います。
…ふむ、つまり、「著者の思惑を追っていく、追跡」こそが、 そして真摯なその態度こそが大事なのですね。 …これはひょっとしたら、母語でもできていないことが多いかもしれません。 「知りたい」という好奇心が弱いというか、そういう人だとすぐあきらめちゃう。 好奇心と、その好奇心を使って未知の世界に入っていける…たとえそれが外国語の世界でも… そういう生徒さんを育て、そのお手伝いができればいいのですが(もちろん「語学」という点に関して)。
あああ、難しい問題です。 でもこれ、突き詰めて考えれば「どうしておめーはその大学はいったんだコラ」という ところまで行ってしまいますな。 就職試験でも聞かれましたよ^−^;;
でわでわ! ゆどうふ。
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