1211   “理解する意志”と外国語
2002/09/28 18:23:05  ijustat   (参照数 43)
これは 1210 [「外国語教育について」] への返信です

ゆどうふさま、こにちは。ijustatです。

>さて、私の大学も来週月曜日からとうとう授業が始まります。
>それで、宿題の整理なんかをしているわけですが…
>そのうちの一つに、「外国語教育についてA4一枚でかいてくる」という宿題がありました。
>まだ書いていません。
>「何故外国語を学習するのか?」「何故外国語を(日本で)教えるのか?」とか、
>いろいろ考えていたら頭フラフラになっちゃって…

面白いテーマですね。このクラブに最高に向いているテーマかもしれません。^^

このテーマの根底には、そもそもなぜ言語を習得するのか。なぜ言語能力を伸ばすのか。そういう問題が敷かれていると思います。なぜ新聞が読めなければならないか。なぜ契約書を読んで理解できなければならないか。このような問題の延長線上に、外国語学習・教育の意味があると思います。

たとえば、英語で書かれたホームページで、“submit”ボタンを押すかどうか考えている人に、英語ができなくてもいいと言うのは酷でしょう。ある言語で書かれた文献をどうしても読んでその情報を得る必要のある人に、その外国語は一般的でないから、学ぶ価値がないと助言するのは、ほとんど無意味です。つまり、必要な人には、必要なわけです。

また、英語の実力が中級ぐらいしかない人が、どうしてもある英語で書かれた資料を読まなければならないとき、その人に、あなたはもっと英語を勉強してからその資料を読んだ方が、英語の実力を伸ばすのに役立ちますよとアドバイスをしても、受け入れることはできないでしょう。

つまり、外国語は必要な人には必ず必要なわけです。日本国内でも、文字を読む必要すらない人がいるかもしれません。しかし、多くの人にとって、少なくとも、新聞を読むくらいの国語力は必要でしょう。それを、新聞を読む国語力を必要としない人がいるから、国語教育は無駄だとするわけにはいきません。

同じように、英語は私たちの多くにとって、必要な言語です。英米人と話す必要のある人は少ないですが、少なくとも、最近は英語で書かれた文書が多くなってきていて、それを理解しないことには目的が達成できないことが多いから、英語の理解力は必要だと思います。(おっと、今、外が光って、雷が鳴りました! ちょっと保存。)

そのような見方で学校での英語教育を眺めると、どうもそのような目的で英語を教えているのではなく、一種の知的訓練として、公式に則って英文の解読をさせているような気がします。そこで重要なのは、書かれた文章から得られる情報や思想ではなく、文法の知識です。要するに、テキストのメッセージはまったく理解できなくてもいいから、部分的に文法構造の分析ができれば、優秀な学生ということになるのではないでしょうか。

こういう英語教育では、“無用”どころか、有害だと思います。その後遺症は、あとあとずっとその人の足を引っ張るからです。むしろ、ほとんど何も分からないまま、辞書を片手に、目の前に置かれた英文と格闘して、その文章に書かれている情報や知識を手に入れようとする、素朴な熱意の方が、ずっと重要でしょう。

英語(または外国語)で発信できる人は、ごく一部だと思います。しかし、英語で受容する必要のある人は、非常に多いです。本当は必要なのだけれども、どうせ自分には無理と諦めている人まで含めたら、かなりの人口になるはずです。

私は、母語と外国語との線引きをはっきりさせない“理解する意志”というものが、(知的)生活には必要だと最近思うようになりました。分からないものを分かるようにするための様々なストラテジーが、私たちのまわりにはあふれています。フランス語ができなくても、フランス語の辞書を引けば、フランス語で書かれた公用文の内容が、何となく分かります。他の外国語でも、同じことが言えると思います。

この“理解する意志”へと至る出発点は、実は、『新釈現代文』(高田瑞穂著、新塔社)という受験用の教材にあるのです。これは私が生まれる前(昭和38年)に出た本で、たぶんまだ出ているのではないかと思います。この本では、「たった一つのこと」を教えていますが、そのたった一つのことというのは、「追跡」することです。今しばらく、著者の声に耳を傾けてみましょう。

「私の「たった一つのこと」とは、入試現代文という断片的な表現に関する方法なのでう。そしてそれは、一言にして言えば、「追跡」ということです。どこどこまでも筆者を追跡するという方法です。われわれの前に一個の文章が置かれ、その最初の文字が目に映った瞬間から、活発な問題意識と、生き生きした内面的運動感覚によって、筆者のことばを追跡することです。筆者は一体どんな問題を、どのように説くのであろうか。私は一体、「どこからどこへ」連れてゆかれるのであろうか。出発した以上、もうわれわれは恐れたり、引返したりは出来ません。どこへでも、どこまでも、筆者とともに行くほかありません。その文の最後の一行の終るところまで。そしてその文の終ったところで、無論われわれも立ち止まります。そして静かに、自分の位置を、自分の前後左右を、自分に近い過去と未来を見渡すのです。」(59ページ)

著者によると、アランという哲学者が「散文の読者は、足場の悪いところを散歩するように一歩ごとに自分の均衡を確かめなければならぬ」と言っているそうですが、著者は、その教訓はけっして、単に散文の場合に限るものではないと言っています。そして、「追跡は一歩一歩、出来れば筆者の足跡の一つ一つを踏みつつ、なされなければなりません。追跡に飛躍は禁物です。多分この道を来るだろうと予想して先まわりして待ったりすることは非常に危険です。筆者はしばしば中途で進路をかえるものです」(59、60ページ)と説明を加えています。

もちろん、全く知識ゼロの状態で追跡することは困難です。私たちは、自分が知っていることとの関係から、目の前に繰り広げられる言葉の意味を追っていくことができるのです。しかし、この追跡という考えは、入試現代国語に限ったことでなく、私たちが人の話を聞くときや、その外のあらゆる文章を読むときに必要な態度だと思います。それは、すべての知的活動の出発点になると思います。

それを私は“理解する意志”だと思っています。この“理解する意志”は、日本語だけに限ったことでなく、私たちの目の前に存在するすべての“情報”に向けられるものです。それは、知っている外国語に限らず、未知の外国語にも向けられます。外国語での知識・情報は、その翻訳で満足できる場合も多いですが、もっと精密に把握したい場合は、原語に当たる必要が出て来ます。“理解する意志”は、そのように、母語と他の言語との線引きをせずに、突き進んでいくものです。

こんなふうに外国語を見ていくと、外国語が身近に感じられ、外国語習得への強い動機が与えられると思います。