1084   全体から迫るか、部分から迫るか
2002/06/15 15:22:40  ijustat   (参照数 12)
こんにちは、ゆどうふさま。ijustatです。

>とりあえずは、
>「ちゃんと落ち込んで、ちゃんと立ち直る」
>ことが先決ですがね。

すばらしい言葉です。ちゃんと落ち込んで、というのが、気に入りました。読めば読むほど滋味が涌いてきます。ちゃんと落ち込めば(^^)、ちゃんと立ち直る以上の素晴らしいことがあると思いますよ。

私の授業への不満で、一番多かった意見はなんだったか?
>それは、「訳をちゃんといってほしかった」
>(授業は「英語講読(リーディング)」の授業)
>というものだったのです。

「訳をちゃんといってほしかった」という不満は、大変な固執病ですね。これも、それまでの先生たちの教育のなせる業か。

>私は、「一文一文を細かく訳すより、その文章の内容をつかんで
>しっかり自分の中で再構築できるようになってほしい」と思っていました。
>だから、文を訳すよりむしろ内容の説明。
>当然、訳をしっかりつける時間はない(50分…短いなあ)。
>ですが生徒達にとっては、それが不満だったそうです。

文章の内容をつかむことは、読解の中でいちばん大切なことですよね。ただ、もっとも、全体の内容をつかむためには、それぞれの要素を解釈できる訓練が必要です。戦後の教育は、相手の言葉の全体像をつかむ訓練ではなく、部分の解釈に費やされてきたと思います。しかし、全体を無視した部分の解釈だから、とうぜんその部分自体にも問題が生じてしまう。むしろ、学校に行っていない無学の人の方が、健全な解釈をしたりします。

それが、大学に行くと、まったく逆の方向から叩き直されますよね。「つまり何が言いたいんだ」と叱られる。しかし、大学でのやり方は、高校までは通用しないのかもしれません。

で、一つ一つの訳を学生が求めるというのは、一つ一つの要素がいったい何なのかが知りたいのでしょう。それは、何も訳す必要もないわけです。それぞれの語の概念は何を表すのか、それは他の語とどんな関係にあるのか。そういうことが分かればいいのですけれども、学生たちは、それは“訳”でないと自分たちには開示されないと信じている。で、一つ一つの解釈に満足してしまうと、ではそのテキストは全体として何を言いたいのかという点に関しては、考えない。こういう弊害は、今始まったわけではなくて、私よりも上の世代からすでに始まっていたようですよ。今も改善されていないのです。

たぶん解釈というのは、まず部分を見ることから始まるわけですが、部分部分の意味をラフに把握しながら、自分の知っている背景知識や人生経験を総動員して全体像をつかみ、それによって、再び部分の解釈を、全体の意味からフィードバックして強化し、その強化された意味によって、全体の意味の解釈を再び深めるというプロセスを経ているのではないかと(私は勝手に)思っています。最近職場で日本人のための聖書勉強会をやっていて、マルコの福音書を読みながら、そう思いました。

高校の英文のテキストに、そこまで読みこむに耐えるものがあるかどうか分かりませんが、学生たちに、そういう授業をやってもよかったかもしれませんよね。

ところで、韓国の人たちと聖書を一緒に読みながら思うのは、韓国の人たちは、とにかく全体を大まかに捉えることに最大の関心があり、一方、私たち日本人は、一つ一つの語句の解釈をしっかりさせることに関心があるようです。もっとも、聖書勉強会に来ている日本人の専攻が、哲学、言語学、歴史学など、文献を扱う畑だというのも、それに拍車をかけているかもしれません。私たちの勉強会に来る韓国の人たちは、日本語ができるにもかかわらず、部分にこだわる日本人のやり方に当惑してしまうようです。

全体を大まかにつかむことを重要視するのは、アメリカ人の知的態度だと思いますが、韓国人も似たようなメンタリティーを持っているようです。一方日本人は、全体よりも、とりあえず部分から検討していく。

どちらも方法論としては、間違っているとはいえないと思います。どちらも部分的な態度だからです。そしてそれは、どちらも取っ掛かりなわけです。私たちは、部分をよく見たあと、それを全体の解釈にまで引き上げることで、迫力のある(?)解釈ができるようになるのではないかと思います。反対に、まず全体像をとらえたあとは、それを頼りに部分の解釈に入っていき、それをしっかりさせた上で、再び全体のより深い解釈を求めるということもできると思います。

私の勝手な意見ですが、学生たちの志向に合わせて、まず部分的な解釈から始めるとしても、その前に、英文解釈の青写真を提示してあげたらどうでしょうか。それは、解釈の窮極の目的は、テキストの全体の意味を把握することだから、部分を解釈する時には、いつもそれを念頭に置く。そして、全体が分かるまでは、部分もよく分からないものだから、あまり突き詰めて考えず、全体がわかったのちに、部分の解釈を再検討する。それが、健全な(?)英文解釈の方法である。云々。

というようなことを、最近ぼんやり考えていました。手を付ける場所は異なっていても、最終的な目的は達せられるものです。そんなことを、英文解釈の指導を通して考えてみたら、どうかなあと思います。

ijustat

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