948   Re^4:民族
2002/02/17 21:35:57  yudouhu   (参照数 13)
ijustatさんこにちわ!ゆどうふです。

>だから、日本国内で“民族”と叫んでも、それは人々に響かないし、また、多くの日本人の民族の観念は抽象的なものです。その議論は観念的で、とても難しい。しかし、民族という問題は、もともと日常的で、具体的で、卑近なものです。私たちがそれに目覚めずにまどろんでいられるのは、ある意味では幸せなことかもしれません。でも、いつか目覚めざるをえなくなるときは来るでしょう。実は、多くの人たちはそうなることを心配していますが、私はそれに希望を抱いているのです。その時初めて、日本人であるということについて自覚できるようになると思うからです。

よく民族問題をテレビで見ますよね。
でも、そこで「クルド人が…」とかいわれていても、「ああ、大変だなあ(100%他人事)」としてしか
おおくのひとはとれないんじゃないでせうか、日本の場合。
逆にこの「世界が近くなった」21世紀では、否応なくその感覚が消えるでせうね。
学校でもそういう教育をするかもしれません。

>もっとも、この“ethnos(エトノス)”という語は、“国家”と訳されることもあります。英語では“nation”になっていることが多いです。種族というのは、同じ先祖を祭る集団で、民族というのは、その集合体。それは王様を推戴して一つの国家のような組織を形成することがよくありました。言語は、同系でも系統が違っていても、それぞれ別の言語と認識されていたようです。まあ、当時は現在でいう国家や民族の概念はなく、もっと違う概念だったと思うので、現代語訳が混乱するのは当然のことでしょう。
>
>しかし、世界を見るときに、“すべての種族、すべての民族、すべての言語”という言葉をじっくり反芻し、その意味を黙想してみることは役に立つ思います。その中で、自分は何なのか、日本人であることは何なのかということを考えることは、有益だと思います。

ふむ、種族が民族のもとになっているということですね
やっぱり今の感覚とはえらく違いますな
今私が「自分は日本民族だ」と思うのは「日本国に生まれ育ったから」という単純に
国家に由来するものだと思います
それに比べたら、もっとずっと「世界を単位に考える」ということは複雑ですね…

>ところで、聖書というのは、基本的にそっけなく記述しているので、ただ読み通すだけだと、読み過ごしてしまうことが多いのですが、立ち止まって考えてみると、その場所場所で、深い味わいのあることを私たちに教えてくれています。特に、矛盾に感じられるような記述に、深い真理が含まれていて、大きく目を開かせられることがよくあります。

記述者の「解説・意見」が少ないですからね
これは宗教の聖典は皆そうなんでせうか
事実だけがかかれているからこそ、その時その時で読者の気持ちによって
より深い考察・思考が可能なのかもしれませんね。

>聖書を読むときは、ざっと読み通して終わりにするのでなく、そのあと時々拾い読みするといいですよ。読み返すときに、時々立ち止まって、考えながら読むわけです。きっと、思いも寄らなかったことを教えられると思います。で、忙しい人のために、聖書のダイジェスト版って、あるんでしょうか。(笑)

うーむ(笑)
子供向けに聖書を紹介したサイトなんかはわりとそんな感じかもしれませんね
わかりやすくするために…
(ちょっと検索をかけてみましたが、今のところ見当たりませんでしたが)

でわでわ!
ゆどうふ。