946   民族
2002/02/17 20:30:39  ijustat   (参照数 5)
aisya96さん、こんにちは。ijustatです。

>>言語は混乱し、価値観も、考え方のパラダイムも、日本人としてのアイデンティティーも、深刻なほど混乱するかもしれません。

>逆に日本人とは何か、とか民族とは何か、こんな問題について深く考えるようになるのかもしれませんね。私は、正直いって、民族とは何か…ってよくわからないところがありますよ。

島崎敏樹という精神科医が昔『生きるとは何か』(岩波新書、1974)という本の中で、“喪失は目覚めである”ということを書いています。民族という観念についていえば、私たちはそのアイデンティティーや存在が脅かされなくなって久しいので、民族という面に関しては、まどろみの中にあると言っていいと思います。

だから、日本国内で“民族”と叫んでも、それは人々に響かないし、また、多くの日本人の民族の観念は抽象的なものです。その議論は観念的で、とても難しい。しかし、民族という問題は、もともと日常的で、具体的で、卑近なものです。私たちがそれに目覚めずにまどろんでいられるのは、ある意味では幸せなことかもしれません。でも、いつか目覚めざるをえなくなるときは来るでしょう。実は、多くの人たちはそうなることを心配していますが、私はそれに希望を抱いているのです。その時初めて、日本人であるということについて自覚できるようになると思うからです。

聖書を見ると、“世界中の人々”というような意味で、“すべての種族、すべての民族(ethnos)、すべての言語(glossa)”と表現されています。私はこの表現が非常に適切で、“世界中の人々”という漠然とした表現では捉えられない人間世界の現実を適確に捉えていると思いますが、どうでしょうか。「民族」に目覚めたというのは、こういうものではないかと思うのです。

もっとも、この“ethnos(エトノス)”という語は、“国家”と訳されることもあります。英語では“nation”になっていることが多いです。種族というのは、同じ先祖を祭る集団で、民族というのは、その集合体。それは王様を推戴して一つの国家のような組織を形成することがよくありました。言語は、同系でも系統が違っていても、それぞれ別の言語と認識されていたようです。まあ、当時は現在でいう国家や民族の概念はなく、もっと違う概念だったと思うので、現代語訳が混乱するのは当然のことでしょう。

しかし、世界を見るときに、“すべての種族、すべての民族、すべての言語”という言葉をじっくり反芻し、その意味を黙想してみることは役に立つ思います。その中で、自分は何なのか、日本人であることは何なのかということを考えることは、有益だと思います。

ところで、聖書というのは、基本的にそっけなく記述しているので、ただ読み通すだけだと、読み過ごしてしまうことが多いのですが、立ち止まって考えてみると、その場所場所で、深い味わいのあることを私たちに教えてくれています。特に、矛盾に感じられるような記述に、深い真理が含まれていて、大きく目を開かせられることがよくあります。

聖書を読むときは、ざっと読み通して終わりにするのでなく、そのあと時々拾い読みするといいですよ。読み返すときに、時々立ち止まって、考えながら読むわけです。きっと、思いも寄らなかったことを教えられると思います。で、忙しい人のために、聖書のダイジェスト版って、あるんでしょうか。(笑)

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