389   中心を攻めよう!
2001/05/21 21:36:43  ijustat-lj   (参照数 15)
プロトタイプという概念が外国語を勉強するときにどう作用するかということを考えてみたいと思います。

外国語である表現に出会ったとします。しかし、その表現は、その後お目にかかることはありませんでした。その理由は、2つ考えられます。私たちが外国語を読みこなせる量が少ないために、たまに使われる表現に何度も接することが難しいかため、または、それはその場限りの用法であって、他には誰も使わないためです。

ですから、そういうとき、私たちの限られた能力を補うために、ネイティブスピーカーにその表現の妥当性について聞くことになりますが、ここで、OKと言う人と、これは使わないという人とに分かれることがあります。

そのとき、どちらが正しくどちらが間違っていると考えない方がいいと思います。どちらもその言語で起こりうることなのです。最終的な決定は、学習者の私たちが何年もかけて下さなければなりません(一晩布団の中で徹夜しても、答えは出ません)。それまでは、何年間も答えは保留にしたままになります。

外国語を勉強し身に付ける過程で難しいと感じるのは、このような、プロトタイプから離れた用法です。こういうものは、たいていは、辞書からも学習書からも、その他の参考書からも見放されています。そして、ネイティブスピーカーに聞いても、答えはまちまちです。何年も勉強しつづけている非母語話者が疑問に思う点というのは、たいていはネイティブスピーカーも答えにくい、つまり、自信のない部分が多いわけです。自信を持って答える人は、独断に満ちた答えをしている可能性があります(私も人のことを言えません)。

で、逆に考えると、観察によって得られる資料が極めて少ない部分というのは、ひょっとしたら、あまり重視しなくてもいい部分といえるかもしれません。頻度がきわめて低いのですから、その分重要度も落ちるといえます。

ですから、重要な点は、そういう部分ではなく、プロトタイプの部分だということができます。ひたすら、基本的なその部分がどうなっているのかを追求していくことによって、その部分の本質がだんだん分かるようになり、ひいては周辺部分の問題も見えてくるのではないかと思います。

私は自分の外国語学習上の態度を“基本主義”と読んでいた時期があります。今でも考え方は同じなのですが、以前ほど強調しなくなりました。でも、もう一度外国語学習を振り返って考えてみるとき、このプロトタイプに属するいちばん基本的な部分を集中して攻撃していく学習方法、あるいは、中心を追跡していく学習方法を強調するのはいいことではないかと思います。

意味・用法の周辺部分を攻撃するのは、労多くして益少なしといえます。砂漠を爆撃するようなものです。ひたすら中心部分を攻撃することで、その全体像が見えてくるのです。初めはぼんやりと、後にはかなりはっきりと母国語と同じような明瞭さで迫ってくると思います。

だから、中心を攻める“基本主義”は、外国語学習上の知恵ではないか。そう私は自画自賛しています。^^;

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