388   プロトタイプと周辺
2001/05/21 03:18:56  ijustat-lj   (参照数 30)
こんにちは、ギラソルさん。ijustatです。

>言い回しとか、よく考えてみれば、絶対に正しいという自信もありませんでした。

自分が話している言葉が正しいかどうかは、確かに気になりますよね。私もそうです。で、自信がないのも、私も同じです。

しかし、ある表現を「絶対に正しい」というのは、言葉の正誤が自然の法則のように決まっているという思想のうえで言えることです。学校教育では、そういうように国語を教えますが、言葉には、そういう性質はありません。

ある言葉の使い方が正しいかどうかということを考えるとき、プロトタイプの概念が役に立つと思います。ある言葉の意味・用法が集中している部分を、プロトタイプと呼んでいます。つまり、ある言葉には、典型的な意味・用法と、そうでない意味・用法とがあるのです。

で、典型的な部分では、ほとんどの人が正誤に関する意見が一致しますが、周辺的な部分になると、個人差が出てきます。

たとえば、「1人で行く」とか「団体で行く」というときの「〜で・・・」と、「友達と行く」とか「先生と行く」というときの「〜と・・・」は、それぞれ別の表現です。「?団体と行く」とか「?友達で行く」というのは、変な言い方です。

しかし、この二つの用法にも、境界となる接点があるのです。

私はこの用法で、「〜」の部分に「家族」が入る時には、助詞「で」しか使えないのですが、「と」でもOKという人がけっこういます。こういうとき、私がこの文型で意識する「家族」と、他の人が意識する「家族」は同じではないのです。

私が意識する「家族」の属性は、「みんな」と同じで、行動する集合を言い、「と」でもいいという人の意識する「家族」の属性は、自分を含まない自分の家族を“相手”として捉えているわけです。

「〜」に「仲間」が入るときは、私は「で」でも「と」でもかまいません。私の同僚も私と同じ意見でした。ひょっとしたら、「と」しかだめだという人もかなりいるのではないかと思います。

こういうことが生じるのは、人を表す言葉が、“相手”となりうるものと、行動の“単位”となりうるものにはっきり分かれるものと、両方にまたがってしまうものとがあるということです。「妻」「友達」「先生」などは、単位にはなりえないと思います。また、「3人」「全員」「団体」などは、相手というよりは、自分もその中に溶け込んでしまうため、相手とするには抵抗があると思います。また、「1人」は自分だけで相手がいませんから、これも単位としてしか使えません。こういう場合は、それぞれの表現のプロトタイプになるわけです。

しかし、「家族」や「仲間」などは、プロトタイプから離れた、周辺の境界部分にあって、どちらのグループに入るかという意見に関しては、個人差が出てきます。

こういう表現に対する“意見”は、その人が生まれてこのかた身につけてきた、言語感覚です。もし、このようなものに対して“絶対に正しい”基準を設けるとすれば、他の任意の誰かの言語感覚を基準としなければならないでしょう。あるいは、アンケートを採って、賛成する人の多いものを“正しい用法”として採択するという方法もあるかもしれません。

こういうことを見てくると、ある言い方に関して“自信がない”と自覚できるということは、それだけ自分が“独善的ではない”ということのあかしにもなると思います。

言葉にはそういう曖昧な面があるので、辞書などで規定できる範囲を超えている用法などに関しては、いったんは、自分の言語感覚に頼らざるをえません。自分がおかしいと思ったら、自分にとってはおかしいのです。また、自分がOKと思ったら、それは自分にとっては正しいのです。あとはそれがどれだけ一般性を持っているか、他の人たちと話し合いながら確認するわけです。

ところで、この「絶対に正しい」ことに対する“信頼”をぐらぐらにしてしまう資料があります。アルクから出た『日本語の教え方実践マニュアル 類似表現の使い分けと指導法』(日本語教育 誤用例研究会)の216ページから226ページまでのアンケート調査の結果を見てみてください。私はこれを見ながら、軽い目眩を感じました。

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